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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ラップリン、してみてわかるホメオスタシス。


人間の身体(からだ)は、実によくできていることがわかる。ホメオスタシスがその一つ。ホメオスタシス(homeostasis)とは、生物の体内器官が、外部の気温や湿度などの変化に対して、ある範囲の均衡状態を保つこと。それは、巧妙なフィードバックが関係していると思う。

フィードバック(feedback)は、結果を原因に戻すことで、システムを調節すること。もともと、電気回路では出力による入力の自動調整機能を言ったが、生物ではホメオスタシスなどの代謝・内分泌の自己調節機能を指す。

アンプなどを組み立ててみると、たかが抵抗一本で驚くほどの結果が出る。発振とか収斂などの問題を避けると、システムには有効である。胎児が母の胎内にいるときにも、その巧妙な仕組みを利用していたに違いない。そして、もしも甘ければ糖尿を疑い、辛ければ塩分の過剰摂取を検討する。

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ラップリンすれば、体調すこやかになる。


個人差も関係するだろうが、ふつうラップリンをすれば身体(からだ)のホメオスタシスが正常に機能して、体調がよくなったり、気分が爽快になるようだ。胎児が母の胎内にいたとき、つまり羊水の中で過ごしたときのことなどを考えれば、何となく納得できる。

病気の予防などにも、大いに効果のあることもわかる。もしかしたら、単に風邪(かぜ)などの軽い病気ばかりではなく、ガンの予防にもなるかもしれない。森重久弥氏が逸見さんにラップリンを真剣に薦めたことも、なるほどと理解ができる。おそらく、自分自身に大きな効果があったからであろう。

フィードバックをすることは、何事においても大切だ。つまり、行き過ぎてしまわないこと。ともすると、悪い結果に陥ってしまう傾向を正しい位置まで戻してくれるのがラップリンではないだろうか。
ラップリンしてみてわかる身体(からだ)の異常。


身体(からだ)の調子は、日に日に異なる。少しでも異常があれば、注意をしなければならない。体温計で図ったり、血圧を測定したり、尿糖を調べたりするが、他に有効なのはラップリン。

なぜならば毎回のオシッコには、身体に関する貴重なデータが含まれているからである。だから、そのままトイレに流してしまうのは、もったいない。少なくとも、量・色・臭(にお)いなどは調べるとよいだろう。

そして、味を調べるのも有効である。甘ければ尿糖が出ている場合が多い。また、鹹(から)ければ塩分の摂りすぎかもしれない。ただし、味を調べるためには小匙(こさじ)一杯分くらいを飲まなければわからない。そのくらいのことは、自分自身の健康を知るバロメータと考えれば仕方のないこと。その上、体調を知る以外にも、ホメオスタシスに関してフィードバックもできるのであるから、……。

飽きちゃダメ、趣味・ゲームなど考えること。


つい、何かをしていて面倒くさくなってしまう。しかし、趣味やゲームなどでは問題がなくても、そのような癖は人生において問題だと思う。なぜならば、思考をするのが億劫になると、身体も衰えてしまうからだ。

細かいことでも、面倒くさがらずにする習慣が必要なのである。パソコンでするゲームなども脳の訓練になるかもしれない。ソリティアや将棋、そして麻雀などある。非常に優れた仕様なので、実際の相手がいるように思ってしまう。だから、飽きてはいられない。

相手があるときと同様に、ゲームでも礼儀が必要だと思う。また、勝つことだけを考えるのは大間違い。そもそも、勝負としてするのではなく、自分自身の思考力を訓練する場と思えばよい。将棋はともかく、麻雀は早打ちをすることによって、脳に活発な刺激を与える訓練になると思うのだが、……。
人生は夢幻泡影、まさしくにょろでん。


夢幻泡影(むげんほうよう)は、夢と幻と泡と影。金剛般若経から取った言葉で、人生のはかないことをたとえている。

私の好きな作家に、清純な私小説を多く残した外村繁(とのむらしげる)がいる。その中に、『夢幻泡影』という作品がある。その外村は滝井孝作の長編小説『無限抱擁』からヒントを得たという。

奥さんが、ガンで死ぬまでの経過を切々と書いている。非常に苦しんだあげく、あっけなく死んでしまう。読んでいて、やりきれない気持になる。外村自身も、その後ガンで亡くなっている。少し古い作品であるが、やはり実際のガンに対する闘病生活を垣間見て、私は恐ろしくなってしまう。

金剛般若経は、夢幻泡影の後に「にょろでん」と続いていたと思う。まったく、その通りだと思う。
引き続き「韃靼そば茶」を賜いてうれし。


渡辺師から、一ヶ月前に「韃靼そば」(だったん蕎麦)をいただいた。そして、今回は「韃靼そば茶」。私が、重度の糖尿病であるので、心配をしてくださったのだろう。うれしい限りである。

この茶は、北海道土別市と上川郡鷹栖町で栽培された「韃靼そば」が原料である。着色料や香料などの添加物は、いっさい使用していないと書いてある。なお、鷹栖町(たかすちょう)は、かつてトンビやタカが多く、アイヌ語で「チカップニ」(大鳥が棲む場所)と呼ばれ、それを意訳して「鷹栖」となった。

渡辺師がおっしゃるように、油断をすると糖尿病は命取りである。早く何とかしなければならない。そうは言っても、長期間をかけて次第に患ったので、医師の処方による薬物で治療するのは副作用や問題が多いので、自分自身が食べ物で治さなければならない。
ことごとく、自分が知るか、わかるしかない。


ことごとくのことを自分が知るという意味ではない。すべてのことは、自分なりに知るか、わかるしかないということである。近代科学は専門化をして、非常に細かいことまでわかるようになった。また、芸術なども高度な技術をともなって素晴らしい域に達している。

しかし、そんな中で自分自身は最先端の知識を理解するための基礎もないし、芸術を鑑賞する才能などもない。実際は、自分にとって専門的な知識がほとんど理解できないし、高度の芸術もわからないことが多い。

とどのつまり、自分なりにわかっていれば、それで仕方ないということになる。わかろうとしても、技術力の基礎がないので限界がある。まして、芸術的なセンスなどは努力をしても得ることができないだろう。『方丈記』の「寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。」である。
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