rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ことさらに塩は食べない、健康のため。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
それでも塩は、「海の精」というのを歯を磨いたり、風呂に入れたりするために買っている。そして、台所ではなく洗面場に置いてある。塩には滅菌作用もあるので、歯周病の予防にもよいらしい。
むろん、タマゴの目玉焼きや炒め物などにも、塩は使わない。マヨネーズやケチャップなど、そしてペッパーやタバスコなども一切ない。野菜などは上質の胡麻油で炒め、そのまま味わって食べる。煮物の場合も、原則として塩は不要。もっとも、塩蔵生ワカメなどは洗わずにスープとして使うので、塩分の不足にはならない。また、外食で多目の塩を摂らされているので大丈夫。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
それでも塩は、「海の精」というのを歯を磨いたり、風呂に入れたりするために買っている。そして、台所ではなく洗面場に置いてある。塩には滅菌作用もあるので、歯周病の予防にもよいらしい。
むろん、タマゴの目玉焼きや炒め物などにも、塩は使わない。マヨネーズやケチャップなど、そしてペッパーやタバスコなども一切ない。野菜などは上質の胡麻油で炒め、そのまま味わって食べる。煮物の場合も、原則として塩は不要。もっとも、塩蔵生ワカメなどは洗わずにスープとして使うので、塩分の不足にはならない。また、外食で多目の塩を摂らされているので大丈夫。
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甘くない汁粉、おいしくいただきぬ。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
砂糖がないから、小豆(アズキ・あずき)などを煮ても甘い味付けができない。そのまま食べるのである。最初はおいしくなかったが、慣れてくると小豆その物の味がわかって、なかなか素晴らしい食べ物だ。ほのかな香りがあって、硬めに煮ると歯ごたえのある上品な味である。
コーヒー・紅茶などにも砂糖を入れない。そのようにしていたら、外でいただく喫茶店やミスドなどでも砂糖を入れなくなった。水で割って飲むと、カフォレもなかなかである。私(Kuroda Kouta)は、いつも『ヴィーグル号』(ダーウイン)だったろうか、「南海の現地人が、一日分の労働の対価として角砂糖一個で満足をした」という記述を思い出す。
砂糖と塩を調理に使わなくなってから久しい。そもそも、我が家の台所には砂糖と塩が置いてない。
砂糖がないから、小豆(アズキ・あずき)などを煮ても甘い味付けができない。そのまま食べるのである。最初はおいしくなかったが、慣れてくると小豆その物の味がわかって、なかなか素晴らしい食べ物だ。ほのかな香りがあって、硬めに煮ると歯ごたえのある上品な味である。
コーヒー・紅茶などにも砂糖を入れない。そのようにしていたら、外でいただく喫茶店やミスドなどでも砂糖を入れなくなった。水で割って飲むと、カフォレもなかなかである。私(Kuroda Kouta)は、いつも『ヴィーグル号』(ダーウイン)だったろうか、「南海の現地人が、一日分の労働の対価として角砂糖一個で満足をした」という記述を思い出す。
何にでも興味をもつと、衰えにくい。
身の回りのことなど、何にでも興味をもつことは、老化予防としての大きな効果が期待できる。興味がなくなったり、無関心になると脳は軟化をしてしまう。したがって、いつまでもフレッシュでありたいならば、身の回りのことに興味をもつことである。
なぜならば物事に興味をもつことは、心のリフレッシュになるからだ。無関心でマンネリになってしまうと、もはや生活が単調化してしまう。そして、乏しい変化の中で心身ともに衰えてしまう。
些細なことにでも、興味をもって当たるのがよいだろう。常に新しい観点で、対象を観察する。そうすると、今までにわからなかった面白いことが、次々と現われる。そのようなことに興味をもって感動をすれば、いつまでも衰えないだろう。
身の回りのことなど、何にでも興味をもつことは、老化予防としての大きな効果が期待できる。興味がなくなったり、無関心になると脳は軟化をしてしまう。したがって、いつまでもフレッシュでありたいならば、身の回りのことに興味をもつことである。
なぜならば物事に興味をもつことは、心のリフレッシュになるからだ。無関心でマンネリになってしまうと、もはや生活が単調化してしまう。そして、乏しい変化の中で心身ともに衰えてしまう。
些細なことにでも、興味をもって当たるのがよいだろう。常に新しい観点で、対象を観察する。そうすると、今までにわからなかった面白いことが、次々と現われる。そのようなことに興味をもって感動をすれば、いつまでも衰えないだろう。
「割礼」や「オシッコ」などの再生多い。
「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」などについてホームページを補完するために、このプログを利用している。そして、ことさら重要と思われる内容の記事については、タイトルとサマリをYouTubeにもアップする。私が、忘れないためだ。
すると、不思議なことがわかった。このプログでは、カウンタが全体の訪問者しか数えていないが、YouTubeでは記事ごとの訪問・再生記録がわかるからである。
そんなわけで、わかったことはタイトルの中に「割礼」とか「オシッコ」などのように「オチンチン」に関係ある記事が、他のものよりも何となく多く見られていること。「割礼をするほうがよいか?」とか「オシッコを飲んだら……?」などという話題である。
「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」などについてホームページを補完するために、このプログを利用している。そして、ことさら重要と思われる内容の記事については、タイトルとサマリをYouTubeにもアップする。私が、忘れないためだ。
すると、不思議なことがわかった。このプログでは、カウンタが全体の訪問者しか数えていないが、YouTubeでは記事ごとの訪問・再生記録がわかるからである。
そんなわけで、わかったことはタイトルの中に「割礼」とか「オシッコ」などのように「オチンチン」に関係ある記事が、他のものよりも何となく多く見られていること。「割礼をするほうがよいか?」とか「オシッコを飲んだら……?」などという話題である。
競いあうことをやめれば心やすらか。
現代社会は、一種の競争社会である。幼いころから、競争を強いられる。それに反すると、いわゆる社会の落伍者になってしまう。学歴や派閥がものを言うし、生存競争に強いものだけが得をする。
しかし、そんなことが何になるのだろうか。競争はキリがなく、ひとときの油断もできない。いっそムダなことはやめて、心が安らかなほうがよいと思う。
例えば、国家予算などもそうであろうか。思い切って、軍事費などをゼロにしてしまう。すると、ミサイルが飛んできたり、占領をされてしまうかもしれない。しかし、そんなことが国際間でそのままになってしまう国であるならば、もはや憲法や国民は無意味であろう。そのようなことを考えて、慎重に行動の決断をくださなければならないが、……。
現代社会は、一種の競争社会である。幼いころから、競争を強いられる。それに反すると、いわゆる社会の落伍者になってしまう。学歴や派閥がものを言うし、生存競争に強いものだけが得をする。
しかし、そんなことが何になるのだろうか。競争はキリがなく、ひとときの油断もできない。いっそムダなことはやめて、心が安らかなほうがよいと思う。
例えば、国家予算などもそうであろうか。思い切って、軍事費などをゼロにしてしまう。すると、ミサイルが飛んできたり、占領をされてしまうかもしれない。しかし、そんなことが国際間でそのままになってしまう国であるならば、もはや憲法や国民は無意味であろう。そのようなことを考えて、慎重に行動の決断をくださなければならないが、……。
システム(死捨無)という概念を思いつきたり。
私(Kuroda Kouta)は、三十歳代のはじめに「システム」という概念を思いついた。システムは「死捨無」を当てつけた言葉で、いわゆる英語の「System」ではない。ローマ字で書くときは、「sisutemu」となるだろう。
つまり、死捨無は「死・捨・無」の三つの内容を含む言葉だ。むろん、ここで死はいわゆる「死ぬ」こと、捨は「捨てる」こと、無はいわゆる「無」を意味する。修行する心の深さの度合いが、その順序のようになるというのだ。
なお、捨は「捨てる」ではあるが、「すて」と読まずに「しゃ」と読んでもよい。いつも思うのであるが、アッシジの聖フランチェスコや捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍のような生き方を少しでも模倣したいものである。
私(Kuroda Kouta)は、三十歳代のはじめに「システム」という概念を思いついた。システムは「死捨無」を当てつけた言葉で、いわゆる英語の「System」ではない。ローマ字で書くときは、「sisutemu」となるだろう。
つまり、死捨無は「死・捨・無」の三つの内容を含む言葉だ。むろん、ここで死はいわゆる「死ぬ」こと、捨は「捨てる」こと、無はいわゆる「無」を意味する。修行する心の深さの度合いが、その順序のようになるというのだ。
なお、捨は「捨てる」ではあるが、「すて」と読まずに「しゃ」と読んでもよい。いつも思うのであるが、アッシジの聖フランチェスコや捨聖(すてひじり)と呼ばれた一遍のような生き方を少しでも模倣したいものである。
読み書きは、効率の悪い意思の伝達。
書く。そして、それを読む。何とも効率の悪い意思の伝達ではないだろうか。
『パパラギ』という本には、文明をはじめて見た南海の島の酋長が近代社会の新聞や本について、何となく批判をする演説があった。いっぽうでは、本を読まない学者もいるらしい。ロチという名前に似ている学者は、アカデミーの席上で「本を読まないことにしている」と述べて、聴衆を驚かせた。その理由は、「恐れをいだくし、読むのが面倒」だったと私(Kuroda Kouta)思う。また、皇帝で哲学者だったマルクス=アウレリウスは、その著作の中に「本をあきらめよ」と書いている。時間が足りなくなるからであろう。
本を書くのは、キリのないこと。そのような意味が旧約聖書の『伝道の書』や新約聖書の『ヨハネの福音書』にもあった。
書く。そして、それを読む。何とも効率の悪い意思の伝達ではないだろうか。
『パパラギ』という本には、文明をはじめて見た南海の島の酋長が近代社会の新聞や本について、何となく批判をする演説があった。いっぽうでは、本を読まない学者もいるらしい。ロチという名前に似ている学者は、アカデミーの席上で「本を読まないことにしている」と述べて、聴衆を驚かせた。その理由は、「恐れをいだくし、読むのが面倒」だったと私(Kuroda Kouta)思う。また、皇帝で哲学者だったマルクス=アウレリウスは、その著作の中に「本をあきらめよ」と書いている。時間が足りなくなるからであろう。
本を書くのは、キリのないこと。そのような意味が旧約聖書の『伝道の書』や新約聖書の『ヨハネの福音書』にもあった。