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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ド=ロ神父、哀れみ給い、そうめん造る。


カソリックの義姉から「ド・ロさま そうめん」をいただいた。香りがあって、とてもおいしかった。フランス貴族の家に生まれたマルコ=マリ=ド=ロ神父は、宣教のために来日。当時の貧しい村民の暮らしに驚いて、私財を惜しみなく投じて、身につけた農業・医療・土木・建築などの技術を広く人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ、尊敬され親しまれた。

長崎県出津に派遣されてから、生涯その地域の産業など広範な分野に指導的な立場から貢献をした。 また多くの教会を建築したが、日本の伝統文化を重んじた建築様式を特徴とする。そして、地域の貧困者や海難事故で未亡人となった女性をすすんで雇い、西洋式の機織や日本初のマカロニ製造工場も造った。その中には、そうめん工場もあって地域の経済的発展に貢献した。

そのそうめんをいただいた。ありがたいことである。
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現実に死後の世界は存在するか?


柳瀬芳意氏の訳された『天界と地獄』を読んだ。中表紙には、「イマヌエル・スエデンボルグ著 天界とその驚異及び地獄 静思社刊行」となっている。柳瀬氏は、スエーデンボルグの書物を多く訳している。また、この『天界と地獄』は鈴木大拙氏も翻訳して、その全集に納められた。だからスエーデンボルグの原本は、かなり信頼のおける内容だと私(Kuroda Kouta)は思う。

スエーデンボルグは実際に死後の世界に行って、学者の立場で体験したことを記録として書き綴っている。それが、ルドルフ=シュタイナーの講演内容などとも補完しているので驚いてしまう。

わが国にも源信の『往生要集』がある。当時の偉大な学者が、仏典から引用したもので、それなりに信頼できる。しかし、芥川龍之介は途中でふっ切れてしまう小説の中ではあるが、あまり源信を高くは評価していなかったように、私には何となく思われた。
考えることが大切、知ることよりも。


本を読んだり、テレビを見ると、今までに知らなかったことが、次々と知識になる。しかし、それらを知っても、あまり活用のできないことが多い。「あれも知りたい、これも興味がある」などといった知識に対する情熱も、何となく薄れてしまった。

そこで、今でに知ったことを利用して、よく考えて結論を出すようにする。そうすれば、何とかなることが多い。そして、その場合に新たに必要な知識があれば、そこで調べればよいだろう。

『徒然草』第七十五段に、<いまだ誠の道を知らずとも、縁を離れて身を閑(しづか)にし、事に與(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫く樂しぶともいひつべけれ。「生活(しゃうかつ)・人事(にんじ)・技能・學問等の諸縁を止(や)めよ」とこそ、摩訶止觀にも侍(はべ)れ。>とある。
心から望めば、すべて可能になるか?


何となく精神論のようなテーマで、ちょっと問題でもある。心底そのことを渇望すれば、たいがいのことは実現するという意味。むろんただ望むだけでなく、考えなければならない。

道元『正法眼蔵』に、「切に思ふこと、必ず遂ぐるなり。」と記述されている版もある。おそらく、書写をした人が思いついて書き足しをしたのではないかと、私(Kuroda Kouta)は思う。それでも、素晴らしい言葉ではないか。

スーザン=ポルナーというハンガリーのチェス名人は、「心から望み、考えれば何でもできる。」と言っている。望むことと考えるということが、非常に大切であるようだ。学校教育ではダメなので、家庭で父が教えたらしい。つまり、考えることではなく覚えることが主体になった現代の教育では、能力は伸びにくいのであろう。

グッドバイそろそろ近く、あとを濁さず。


「飛ぶ鳥跡を濁さず」とか「立つ鳥跡を濁さず」などと言う。それは「立ち去る者は、あとが見苦しくないようにすることが大切だ」ということ。つまり、「退きぎわがいさぎよい」ということのたとえである。

ここで私が「あとを濁さず」というのは、人生を立ち去るときのことである。考えてみれば、一生にはいろいろなことがあった。そして、その都度あまり深く思慮もせず、問題を解決してきた。中には、投げ出して中途半端になったことがかなりある。また、右顧左眄して見苦しい結果になったものも多い。

そこで、いろいろと反省をしてみる。済んでしまったことは仕方ないが、残した文章などは無責任なものが多い。「あとを濁さず」どころか、「あとは野となれ山となれ」で、目先のことさえなんとか済めば、あとはどうなってもかまわないという内容のものも多かった。まだ校正のできるものは、何とか直したい。
オシッコは、あまり美味しいものではないが……。


ウンコには、大腸菌などの腸内細菌がいっぱい。ウンコは触れるだけでも、不潔である。しかし、オシッコは排出された直後は無菌状態で清潔。尿道を患っていたり、腎臓に障害がない限り、水道水よりも安全な飲み物である。

遭難したときにオシッコを飲んで助かった事例も多く、またアラブなどの水が少ない砂漠地方では、ラクダの尿を洗顔に使ったりしているらしい。さらに、オランウータンなどの高等な類人猿は、喉が渇くと自分のオシッコを飲む。

オシッコには多くの情報が含まれている。病院で、検尿をするゆえんである。それをトイレに捨ててしまうのは惜しい。私は500mlの計量カップに摂って、分量・匂い・色などを確かめる。100ml以下のときは、前立腺や頻尿を疑う。そして、一日に一回ぐらいは勇気を出してラップリンをする。
束の間の事がらなのか、人の一生。


マルクス=アウレリウスは、『自省録』の中に次のように書いている。

<人間に関することは、すべてかりそめであり、つまらぬものであるかを絶えず注目しなさい。身体と言っても、昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。だから、このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟(う)れたオリーヴの実が、自分を産んだ大地を讃(ほ)めたたえ、自分を実らせた樹に感謝を捧げながら、地面に落ちて行くように。>

これは、すばらしい洞察だと私は思う。他に「死」に関する記述を見たが、この一生については「束の間の事柄」としてとらえている。また、「死後の名声」を望むことについても、記憶全体が消滅してしまう空しいことと言っている。
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