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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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健康に生きるしか他に方法はなし。


お恥ずかしい話だけれど、正直な話。年金生活者になってから、私たちの生活はあまり楽ではない。私の支給年金額は、ほとんどが家賃となる。公団の賃貸住宅ではあるが、管理費や光熱費を含めると一ヶ月に20万円近くかかってしまう。

そんな按配で、妻の年金が私たちの食費になっている。何とかやっていけるが、いきおい質素な生活にならざるをえない。住宅費を除くと、エンゲル係数100パーセントだ。

片方が欠けると、現在の生活が維持できなくなる。つまり、私が死ぬか、妻が死ぬとアウトになる。また、離婚をしても同じ。私が死ねば、妻は家賃が支払えない。反対に妻が死ねば、私は食べ物を買えなくなって、飢えて孤独死をしてしまう。そんなわけで、二人とも何とか健康でありたいと切実に思っている。薄氷を踏んでいるような日々の現実。
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死を思い、死を考えて、安心立命。


古希を過ぎると、何となく先行きが心細い。そこで、間もなくやってくる自分の死について安心立命を考えるために、スエーデンボルグやシュタイナー、そして宣保愛子などを研究してみた。

スエーデンボルグは、死後の世界を詳細に書き残している。鈴木大拙が翻訳したくらいだから、かなり学問的にも信頼できる内容ではないだろうか。また、シュタイナーはシュタイナー学校もあるほどの教育者。その講演には死後の生が詳細に述べられていた。

宣保愛子のテレビ番組を何回か見た。とても、有意義な内容であった。局のやらせ方針なのだろうか、ワセダの先生が出てきて茶番をしていた。ふつう、人間の目や耳が捕らえられる周波数は、存在のごく一部。新約聖書の疑い深いトマスを思い出したり、私も早大の理工学部なので、少なからず恥ずかしく思った。
先生になりたがる人、多くいる場所。


「先生と呼ばれることを願ったり、師が着る長い衣をまといたがる人が多い」ということが、聖書に書いてあったと思う。また、川柳みたいな言葉で「先生と呼ばれるほどのバカはなし」とも言われる。

親鸞は、自分自身を先生とは考えなかった。また、吉田松陰だったか「軽々しく師となるな」と言ったと記憶している。私は、実際に専門学校の時間講師をしていたが同僚の先生から「先生」と呼ばれたときに、何となくバカにされているような気持ちになった。

碁会所(ごかいじょ)や福祉センターなどに行くと、何となく暇な一般の先生がいる。しかし、そのような雰囲気が好きでないので私は行かない。「天は人の上に人を作らず」というではないか。
繰り返し、それが人生、飽きたら終わり。


旧約聖書の『伝道の書』ではないが、日々あまり新しいことはないようだ。次々と刺激を求めて新しいことをするが、いわゆる自己満足の衝動でしかない場合が多い。

旅行などをして、見知らぬ土地に行ったりもした。見聞を広めるのも、よいかもしれない。しかし私(Kuroda Kouta)は、なぜか孫悟空のことを思い出す。それは、きんと雲を飛ばして地の果てまで行くのだ。そして、そこにある五つの山のまん中に「孫悟空、ここに来たれり」と書いて、帰ってくる。お釈迦さまは、手を開いて指を見せる。すると、中指に……

そもそもヒトが肺で呼吸をしたり、心臓で血液循環をすることも、反復である。また、人の一生も一つの世代の反復であろう。そんな意味で、日の下には新しいことがないのかもしれない。
薬品を身体(からだ)に入れることを避けたい。


私(Kuroda Kouta)は、健康維持のために化学薬品を食べないように注意をしている。

大量の化学薬品を摂取すると、どうしてもガンの誘発を避けられないのではないだろうか。また少量でも、ホメオスタシスの失調をきたしてしまうようだ。個人差もあるがグルミューの欠損なども、化学薬品と関係があるのかもしれない。また、複合汚染ではないが個々の薬品間の相互作用などについては、その結果がわかっていない場合が多いのではないか。

そこで、安全のために台所には化学調味料を置かない。また、外食のときは味付けのシンプルなものにする。なお、砂糖と塩をともに大量に使って、単に舌触りをよくしてあるようなもの、例えば上品な味の羊羹や焼き鳥の香ばしいたれなどは多量に食べないほうが無難だと思っている。
「バス途中下車プチさん」の楽しみ増える。


シルバーパスを取得してから、バスの利用が多くなった。これまでは、バスの利用回数が少なかったが、無料になったので増えた。途中下車などをして、行動範囲が広がったのである。

気軽に、バスストップのある付近をプチさん(プティ散策)できるようになった。いきおいバス停などに、「……公園」「……寺」「……神社」などとある場所に途中下車して、歩いてみることが多くなった次第。

むろん「……寺」などとあっても、もはや寺のないところもある。日野市の万願寺などもそうである。それでも、それなりのいわれがあって付近を歩いてみると、何かしらの発見があったりする。そんなことも、バス途中下車のプチさん(プティ散策)がもたらしてくれる楽しみである。
興味あり、地図上にあるまだ見ぬところ。


地図を見ていると、まだ行ったことのないところに、興味を覚える。古寺巡礼ではないが、寺院などの訪問は自分なりの想像をともなうので楽しみだ。また神社参りも、なかなか面白い。

ただ行き当たりばったりに行くのではなく、あらかじめ地図で調べておくのだ。そして、いろいろと想像をしながら訪問する。すると、まったく考えていたイメージと異なる場合もある。本堂が鉄筋コンクリートでできていたり、寺とはいうものの個人のお宅だったりすることもある。突然に行くのであるから、本尊の仏さまを拝顔できなくても仕方ない。

神社仏閣のほかにも、公園や遊園地など、その他さまざまなところがある。地図にマークされているところなら、いちおう安全であろう。市などの支所や設備であれば、休息をしたり、手洗いなども利用できる。
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