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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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初蝉(はつぜみ)が、せわしげに鳴く林道歩む。


梅雨が明けたころに、林道を行くと初蝉が鳴いている。
もっと早くから鳴いているのかもしれないが、私は毎年そのころに聞く。
しかし、入院をした年は聞けなかった。

そんなわけで、今年は久々に多摩市の境を超えて、町田市側や八王子市側に行く。そこには、雑木林や林道がまだ残っているからだ。

そして、多摩ニュータウンが開発される前の状態が、そっくりそのまま残されている。開発を免れたというか、指定地域になっていなかったので、あまり変わっていない場所がある。

そんなところの風景は、何となくパストラーレでのどかだ。
そして、私の原風景(げんふうけい)なのである。
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銀ヤンマ、飛び交いており、池の畔(ほとり)に。


私は、銀ヤンマの飛行を見るのが大好き。
小学生のころからだ。

だって、塩からトンボや赤トンボなどと比べると、何と悠然としているではないか。池の畔や水面上を数匹がテリトリーを守るべく、飛び交っている様は、いつまでも見飽きない。

長池公園の池のような広い場所だけでなく、生田の青少年科学館の前にある小さな丸い池なども同じ。毎年、その光景を見る。

何となく銀ヤンマが小さくなったみたい。でも、考えてみると自分が大きくなったので、相対的にそう感じるのかもしれない。
そんなご経験がありますか?
青々と繁る林に、鴬(うぐいす)の声。


長池公園の中である。
尾根幹線から入ると、中央の池にたどりつくまで、鬱蒼たる林がある。むしろ、森と言ってもよいくらいだ。

よく、鴬が鳴いている。
静かな森に、響き渡る。静寂を切り裂くようで、何とも言えない。

私は、長池公園の林が好きである。
ときどき、中を歩くのであるが、浄瑠璃姫の碑(いしぶみ)のところで休む。すると、鴬の声が聞こえたりする。

何となく、浄瑠璃姫が観音菩薩の像を背負って入水した様子などが想像できて、哀れをもよおす。

腰痛(ようつう)が、梅雨(つゆ)の期間にしばしば起こる。


湿度が高いと、腰痛が起こります。
私の場合、梅雨のときには、とくにひどいようです。
腰のあたりが、ぐいっと痛かったり、ギリギリと痛んだりする。まったく、困ったものだ。

人間は、そもそも四つんばいになっていた時代が長かったみたい。
四足歩行(しそくほこう)である。それが、何万年か前に立って歩くようになったみたい。その結果、手が発達して、さらに脳が素晴らしいものになった。

でも、元来は「梁」(はり)として使っていた背骨を「柱」として使うようにならざるをえない。その結果、宿命的に腰痛になりやすくなったのではないか。

そんなことを考えてみた。

顧みて(かえりみて)、悔い多くある、今までの生。


もしかしたら、私だけのことかもしれませんが、何と後悔の多いことでしょう。むろん、「あれでよかった」というようなこともありますが、ほとんどが「まずいことをした」と反省をします。

つまり、後悔と反省の連続が、今までの生なのです。
愚かだったために、そうなったのでしょう。

これからは、よく考えて反省をしなくてもよい、さらには思い残すことのない人生を送りたいものです。

そんなことを考える年格好になってしまいました。
もはや、先があまり長くないからでしょうか。
何とか、安心立命をしたいものです。


ほどほどにしておけばよい! 争いなどは。


人と人とが争うのは、生きていくために仕方のないことだったようです。
生まれる前から、つまり父親が発射をした精子のときから、激しい生き残り競争をしたことを思えば、致し方ありますまい。

しかし、そのようなことは別として、学校教育などによって不必要に競争をしいられていることもあるでしょう。それは、資本主義社会が成り立つために当然の結果なのです。

考えてみると、競争や争いはなるべくしないほうがよいのではありませんか。まして、思想の違いによって争うなど、狂気の沙汰ではないでしょういか。

戦争などは、まったくバカバカしい行動だと言った人もいました。
例えば、マハトマ=ガンジーです。

何事も気力をもちて、行えばよし。


「精神一到何事か成らざらん」などと言います。
また、「切に思ふこと、必ず遂ぐるなり」と書かれています。

後者は、えじょうの『正法眼蔵随聞記』にある言葉ですが、必ずしもそうとは言えないのです。なぜならば、その文自体がない写本があるからです。

つまり、道元が言った言葉ではなく、書き写した人が書き加えたのかもしれません。
しかし、私の大好きな言葉なのです。

精神力についてはともかく、気力がないと何事も成就しないようです。その気力は、かなり身体のコンディションによって変わってきます。
常に、健康でありたいものです。
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