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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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若き日の溌剌(はつらつ)とした気力いずこに?


若かったときに溌剌としていた気概(きがい)は、いったいどこへ行ってしまったのだろうか。

老いて体力に自信を失うと、多くの人は何となく消極的になってしまうようだ。
そんなことのないようにしたいと私は思っているのだが、どうしてもそうなっちゃう。

まず、健康状態を維持することを実現しなければならない。
何とかして、病持ち(やまいもち)を改善したい。

以前よりは、だいぶよくなってはいるが、……
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空しかる気持を満たす五七七なり。


人生も終盤に近くなると、何となく心が空しくなってきます。
すでに済んでしまった半生(はんせい)以上の期間に対して、悔いと無念さが残っているからです。

しかし、そうかと言って今さら挽回はできません。
すでに、体力がなくなっているからです。
そんな日々に、じっと過ぎてしまった半生の反省をして、残る日々を大切にしたいものです。
そのために、この五七七に託して気持を整理しておくことがよいでしょう。

なぜならば、五七七は簡単で、誰でも素直に心を写すことができるからです。嘘だと思ったら、やってご覧なさい。
玄米を食べて、大きな大便を出す。


玄米を食べると、驚くほどカサのあるウンコがでます。
そのウンコの色は、黄金色。おそらく、玄米は善玉の腸内細菌叢に好ましいのでしょう。
なぜならば、玄米は古くから人間が食していたものだからです。
便のカサが増えるのは、私たちのウンコの他にも腸内細菌叢が出したウンコも含まれているからでしょう。

薬の代用にするには、生玄米もよろしい。
20分の1カップくらいをコーヒーミルで碾(ひ)いて、そのままスプーンで取って食べます。

ただ、玄米を食べるときには、農薬を使っていないカルガモ米などを用いてください。
農薬は、胚芽に濃縮されて残っているからです。そしてまた、玄米は胚芽を残すように精米されるからです。



ニワトリが、フライドチキンになる工程。


私は、このことを考えると、心が慄然(りつぜん)とします。
なぜならば、自分自身がニワトリと似た立場に置かれていると感じるのです。さらにもしかしたら、日本人全体が何者かに飼われているような立場にあるのではないかという懸念さえあるからです。

話を飛躍させずに、戻しましょう。
倉田百三(くらたひゃくぞう)『出家とその弟子』に、鶏を捌(さば)こうとしていると、突然自分が入れ替わって鶏になっているという恐ろしい話があります。

また、中国の説話で同じような内容が、魚の場合であります。

私も、「食用がえる」の中で、そんなテーマを試みてみたんですが、……
本当の友達増えず、次々と減る。


本当の意味の友達は、なかなかできないようです。
とくに、高齢になると互いに考え方が異なるからです。

また、「次々と減る」ということは、喧嘩をしたりして減るのではありません。死んでしまったり、寝たきりになっちゃたり、ひどいのはアルツハイマー病になってしまうからです。

そんな意味で、高齢になると「本当の友達」というのは少ないのでしょう。ゲーテでさえ、晩年は「二・三人であった。」と言い残しています。
エッケルマンは、その意味では友達ではなかったのかもしれません。

私は、自分を含めて「人間のバカさ加減は言い尽くせない」のではないかとも思っています。なぜならば、自分の中に自分という分身の友達を発見したからです。
ちょっと意味がわかりにくいかも?

「巧言令色少なし仁」などと言う。

『論語』にある言葉。
「言葉上手で愛想よしは、人格者ではなく、信頼できない」というような意味であろう。私は、礼儀やエチケットを知らない人と付き合っても、意味がないと父から教えられた。

また、恥や外聞をいっこうに気にしない日本の政治家などよりも、「天知る、地知る、我が身知る」と言って自分を諫(いさ)めた中国の政治家を学ぶべきだと思う。

『仏教聖典』にも、

<言葉だけ美しくて、実行の伴わないのは、色があっても香りのない花のようなものだ。>

とある。

なお、不思議なことに、『論語』にはまったく同じ文章で「学而第一」と「陽貨第十七」の二ヶ所に出ている。おそらく、編者の間違いではなく、非常に大切な言葉だから最初のほうと、最後に近いところに重複させたのかもしれない。
心の目で見るシュールリアリズムの絵。


正直言って、ミロやカデンスキーの絵を初めて見たときには驚いた。
そして芸術にも、ずいぶんスパンがあるものだと私はつくづくと思った。

ふつうには見えない、だから心の目で見るんじゃないか。
エルキュール=ポワロの中に、

<現実の世界よりも、作中の人物のほうが現実に思えてくる。>

というくだりがあったように思う。
そして、何となくドン=キホーテを思い出したりもするんだ。

カデンスキーは、「音を聞くと、色が見える」と言ったらしい。
私は、色の中にも、音があると思う。いずれも波長であって、ただそれらを感じる器官が違うだけかもしれない。



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