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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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考えて、何とか工夫、五七七する。


次々と五七七を作って、書き留めます。
そのときに、あなたは「こんなことをして何になるのか?」などと考えてはいけません。

そもそも、五七七は「生きている証明」なのですから。
だって、呼吸をするときにいちいち「呼吸などを何のためにしているか?」などとは考えないでしょう。

五七七は、あなたの生活の一部だと考えてください。
おそらく、それがあるために日々の生き甲斐を見つけたり、再発見を記録したりできるからです。
そして、それがさらに次のステップにつながるのです。

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下手な子の弾くピアノ、美に遠く五月蠅い(うるさい)。


そんなもんでしょう。
しかし、弾いている子どもは違います。一所懸命練習をしているのです。その過程ですから、五月蠅くても仕方ありません。

何でも、最初のうちは美に遠いようです。
この五七七なども、まったく無意味のように見えるでしょう。

それこそ、いくら作っても五月(さつき)の蠅(はえ)でしかありません。しかし、そんなことはどうでもよろしい。
六月の蚊でも、七月のゴキブリでもかまいません。

子どもがピアノでバイエルやチェルニーなどを練習していると、この五七七のことと「美」について考えてしまうのです。

何となく生きてる記録、書き連ねゆく。


五七七は、まぁそんなもんじゃないでしょうか?
つまり、「生きている証明」であり「生きている記録」なんです。

別に、理屈はありません。
『ヨハネの福音書』に、「はじめに言葉あり」とあります。
続いて、「言葉は神とともにあって、神自体なのだ」とまで言い切ります。

言葉は、物を考えるのに必要なツールでもあります。
したがって、語彙(ごい)をたくさん知らない人たち、例えば子どもたちは複雑なことを考えることができません。

五七七は、大げさに言うと自分の次元を神に近づける修練と言ってもよいでしょう。
火の玉の先生よりも、宜保愛子(ぎぼあいこ)さん。


私は、小太りの火の玉の先生よりも、むしろ宜保愛子さんの言っていることのほうが何となく正しいと思う。

小賢しい(こざかしい)学問による理屈よりも、人間のもつ本能のほうを信じるというのである。
また、「証明ができないことも多くある」ということを知らなければならない。
学問が片手落ちであることは、過去の歴史から明白。
そんなことを学者は忘れてはいけない。もしも、忘れていれば、それは何とも恥ずかしいことである。

あなたは、いかがですか?
ペロリンと消える怖(こわ)さにページをコピる。


何かの拍子に、すでにインプットしたデータが消えてしまう。
おそらく、誤操作が原因であろう。
しかし、長文をようやくインプットしたような場合は、がっくりしてしまう。

そこで、こまめにセーブをする。本文をバックアップしたり、コピーをするのである。

ちょっと、物をなくすことを心配して予備をもっているのと同じ感じ。
やはり、安心して作業ができる環境であってほしい。

火事などは絶対に起こらないと考えれば、火災保険などは不要になると早合点するのと同じことであろう。
心地よさ、それが唯一、生きる目的。


あまり難しく考えることはない。
コンフォタブル、それが目的なのである。
人間の脳が発達をしてしまったために、何かと理屈づける。すべての物事には、理屈が必要であると思いこむ。

学校教育なども、そのようになる原因。

しかし、素直になって考えたらわかるであろう。
目的のないものに、目的を見つける。ないものを有ると考える。知っているものが、すべてだと考える。

人間の知恵の及ばないことなどはなく、学問で解決できないことはない、などと考えるのは非常に危険なことである。荘子なども、そのようなことを喝破している。
確認のために、何度も同じこと言う。


それをくどいと感じる人もいるであろう。
『福音書』に、イエスがまったく同じ問いを続けてペテロに三回するくだりがある。ペテロは、とうとう「あなたは、すべてをお見通しです」という。

また、「鶏が鳴く前に三回私を知らないと言うであろう」と言われたことについても、ペテロは参って、さめざめとしてしまう。

旧約の『コヘレットの書』に書いてあることも、印象的だ。

さらに、『法華経』の陀羅尼編などは、百万陀羅(ひゃくまんだら)などと同じことを繰り返すことの揶揄(やゆ)になってしまった。

そう言えば、人間の呼吸や脈拍、それに食事や睡眠などの生活も基本的には変わりないようだ。『コヘレットの書』をモチーフにしたヘミングウエイの小説『日はまた昇る』のように。
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