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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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トラブルの起きやすい日は、土・日と祝日。


今までの体験から、何となく土曜日・日曜日、そして祝日に事故やトラブルが多いような気がする。人が多く出る賑(にぎ)わいの中では、どうしても問題が発生しやすいようだ。人には、それぞれの考えがあるから、それらがマッチをしないと争いになる。

そんなわけで争いの嫌いな私は、なるべく土曜日・日曜日、そして祝日には出かけない。部屋にいて、パソコンをしたり、読書をしたり、CDの音楽を聞いたりする。

しかし、腹が減って仕方なく、食堂や喫茶店に行くこともある。いずれも隅の椅子で、静かに過ごす。多くの客が大声ではしゃいでいたり、言い合いなどをしている。しかし、私にはあまり気にならない。ふだんの日と、少し違う感じであるが、とくに満員というわけではないから。
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なかよしの大岩さんが言いしことども。


仲がよかった大岩さんが、亡くなってから久しい。なぜか、最近になって彼が言ったことをふと思い出すことがある。それが、かなりしばしばなのだ。もしかしたら、私も大岩さんが亡くなった年齢に近くなったためなのかもしれない。

いっしょに旅行などもした。旅先でも、いろいろと教えられることが多かった。例えば、「うめたつ人形」などについては、まったく知らなかった。梅宮でさえ、妻が「はぐれ刑事純情派」というのを見ていて、教えてくれるまで知らなかったのである。むろん、マリアンも。

そのような次第で、ささいなことでも彼が言ったことを思い出すのである。その時点では、私にとって新しい知識であってことが、なぜか今となっては何となく思い出となって、なつかしく鮮やかに蘇(よみが)えってくる。
ふと思う、見知らぬ土地も懐かしくあり。


初めて歩く見知らない土地で、ふと何となく懐かしい気持ちになることがある。かつて、ここを歩いた経験があると感じるのだ。もしかしたら、それは既視感(きしかん)やデジャビュと呼ばれる現象かもしれない。

考えてみると、どこへ行っても自然や風景は、大きな変化はなく似たり寄ったりである。だから、前に体験したような類似パターンを見出して、それを同じと感じるのかもしれない。脳には学習機能があるから、分類をして体系づけることを瞬間にするのであろう。

私たちは、広く似た環境の中で生きてきた。自分だけでなく、自分に至らしめた祖先の人たちすべてをその中で生かしてきたのである。したがって遺伝子の中に、すでにそのような記憶が組み込まれているのかもしれない。
「もうダメだ」「もう終わりだ」と言ってはいけない。


なぜならば、自己暗示が働いて、ほんとうにそうなってしまうからだ。私たちはどんなときにも、希望をもって前向きの姿勢で事に当たらなければならない。一縷(いちる)の希望であっても、心理的には大綱(おおづな)と同じ。

私は、『蜘蛛の糸』という小説を思い出す。また、ペテロの母が地獄に落ちた物語も印象的。

私はカンダタでないし、むろんペテロの母親でもない。したがって、そのときの気持の動揺はわからないが、何となく自分だけが救われたいという気持は、問題があると思う。しかし、究極の場合はどうであろうか。サッタ太子や雪山童子のような崇高な神経をもっている人は、少ないのではないかと思う。
「もうダメだ」「絶対ダメだ」などと言わない。


不思議なもので、そのようなことを言うと、本当にダメになってしまう。つまり、自己暗示が働いてしまうためかもしれない。だから、どんなときにでも逆に「絶対できる」「うまくいく」と考えれば、成功することが多い。

上杉鷹山の「なせばなるなさねばならぬ何事も ならぬは人のなさぬなりけり」や一部の『正法眼蔵』にある「切に思うこと必ず遂ぐるなり」などをそのようなときには思うとよいでしょう。

そもそも、人間の潜在能力はかなり大きなものであるから、気持ちのもちようで結果が異なってくるのは明らか。したがって、自己暗示を可能性が大きくて好ましいほうにかけるとよいのではないでしょうか。悲観的になってしまうと、気持ちまで暗くなってしまうので、絶対に諦めてはいけません。
最近は度忘れ多く、記憶も曖昧。


何となく、心配である。ここのところ、度忘れが多くなったみたい。人の名前や場所の名称が、すぐに出てこないときがある。思い出そうとすると、頭が痛くなってしまう。

また、記憶も何となく曖昧(あいまい)になってしまった。「確か、こうだ」などと思っていても、調べなおすと違っていたりする。また、まったく別テーマの内容を勘違いして、そのことだなどと考えてしまう。

失念があったり、人名・地名を思い出せなかったりすると、ぼつぼつ痴呆症やアルツハイマー病の初期症状が出ているのではないかと心配である。古希を過ぎたのであるから、仕方がないのかもしれない。しかし、体力や免疫などは衰えても仕方がないが、記憶力だけは何とかして、いつまでも正常に保っていたい。
人間の身体(からだ)は、中途半端が多い。


私たちの身体に、病気や故障が多いのはなぜだろうか。人間は神に造られたので、完全だと思っている人も多い。しかし、この世の現状を見ると、何となくその確信が失われてしまう。

何のことはない、トポロジー的に考えると「人間の身体は一本の管(くだ)または筒(つつ)」と同じ。それに直立歩行をしたため、梁(はり)である背骨を柱として用いるようになった。そんな構造変化をなしたために、「病の器」になってしまったのではないか。仰向けに寝るなど、自然界においては「どうぞ、私を食べてください」というようなもの。まったく、不自然な生活になってしまった。

神が創って完全ならば、「三つ目がとおる」やさらには蜻蛉(とんぼ)の複眼、さらにはふた口女やろくろ首のような形になったかもしれない。
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