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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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見知らない土地を歩くと、小さな発見。


今までに行ったことのない土地を歩いていると、小さな発見があって楽しい。まだ見たことのないものがあったり、また珍しいものもある。景色そのものが見慣れた場所ではないから、斬新なイメージを与える。

もしかしたら、もう見ることのない景色かもしれない。つまり、自然や風景との一期一会である。次回に行ったときには、すでにそこになかったり、変わってしまっている場合もある。

そんなわけで、見知らない土地を歩くことには、大きな楽しみがある。しかし、必ずしも歩く必要はない。バスに乗って、窓から景色を見ているのも楽しい。若いころ、自分の車でたいがいの場所は走った。したがって、何となく記憶に残っている道がある。風景が大きく変わってしまっても、かつての面影をまだ残していることが多い。
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たいがいは思いついたら、すぐに実行。


たいがいのことは、思いついたら忘れないうちに、すぐに実行する。むろん、いっぺんにできないこともあろう。そのようなときは、次の日に続きをすればよい。

何事も、着想が大切。思いついたら、すぐにすることが発展をするチャンス。しかし、現実に不可能なことも多い。例えば、家を建てることなどだ。そこで、まず家の設計図を書くのもよい。『発心集』の「貧男差図ヲ好ム事」に、貧しい男が荒れ果てた寺で、広大な屋敷の設計図を書いている話があった。

つまり、すぐにできないことは、いろいろと考えたり、計画しておく。少なくとも忘れないように、メモをしておくとよいだろう。この新句(十九音)にも、備忘録のような機能があると思う。
われわれの皮膚は、生死を左右するもの。


われわれの皮膚で閉じた空間が、生体である。そして、それは生命でもある。その皮膚が、少しでも破れると痛い。バイ菌が入ったりするとアウト。次々に新しい皮膚ができるので、古い皮膚は上層に押しやられ捨てられていく。仏教の筏(いかだ)の話を思い出してほしい。

不要な物は、捨てるという考え方。アラブの人たちは、どこへでも唾を吐いたり、小便をするらしい。砂漠に住んでいた習慣だろう。したがって、ホテルではどこへ行っても泊めようとしないということだ。

ケラチン、真皮、表皮がある。基底層の細胞が分裂をしても、表皮へは向かわない。指紋は表皮にあるが、真皮で作られている。疣(いぼ)や瘤(こぶ)などもある。数十兆個の細胞も、最初は一つの卵子から始まった。1グラムで、ほぼ10億個の細胞がある。
恥ずかしい存在である自分があわれ。


今さらではあるが、自分自身のことを考えてみると、まったく恥ずかしいかぎりである。何をやっても満足にできない。また、やったことが中途半端。いいかげんに、我ながらいやになる。

しかし、少しずつでも考えをまとめていこうとしていることも事実。そんな中でいやになって、自分があわれであることが、もう一つ。それは身体というか、健康に関してである。

若いころは、まったく考えていなかった問題が身体に起こる。考えてみれば、すでに古希を過ぎているから、それはいたし方がないのかもしれない。元来、遺伝子はこのような長寿を過去に予想していなかったらしい。そんなことが、次第にわかってきた。あきらめてしまったほうが、早いのではないか。
いつ見ても美しくあり、富士の姿は。


私の部屋は、超高層建物の十二階。それでも、まん中ぐらいの高さである。晴れた日には、富士山がよく見える。曇っている日も、うっすらと見えることがある。さすが、雨や雪の日は見えない。

冬期は、真っ白である。雪を冠(かむ)っていて、とくに美しい姿。しかし、夏になると雪は消える。それでも、背景に馴染むことなく目立っている。夕方には赤富士とでもいうのであろうか、何とも言えない美しさだ。

富士山が美しいのは、その形にあるのかもしれない。とくに、山頂の部分が少し平らになっている台形のフォルムと、裾野の広がり方がよいのではないだろうか。もしも、頂上が尖(とん)がっていて、斜面もピラミッドのような直線であったなら、感じ方が変わってしまうだろう、と私は思う。
少しずつ整理をしよう、不要なものを。


いつも思うのであるが、何とも身の回りに不要な物の多いことだろうか。おそらく一生の間、それを使わないと思われるものがある。若いころは、それでも可能性を秘めているので、それらに意味があったかもしれない。

しかし、古希を過ぎてみると事態は変ってくる。つまり、ガラクタや不要な知識の中で生きていることになるのだ。ゴタゴタと身の回りに多くあるのは、何とも煩わしくなってくる。

『一言芳談』に、「糂だ瓶(じんだがめ、「だ」は米偏に「太」)一つももつまじき」というような後世への戒めの記事があった。また、欲しがるよりも「捨つるが大事」とも。そこで、私も不要なものはばつばつ整理をしてゆこうと思う。もしかしたら、自分自身が不要となるかもしれない心配をしながら。
メモにする、記憶に残す、そんな断片。


新句(十九音)は、必ずしも芸術作品である必要はない。ちょっとした内容のメモ代わり、また覚えなどとする記事であってもよい。

メモ用紙などに書いておくと、それ自体を忘れてしまう。しかし、このように何となく作品らしい形態で残しておくと、後で見たときに思い出す。それ自体が、記憶のニーモニックとなるのである。

そんなわけで、他人が見たときに何であるかがわからないこともあろう。わからなくても、よいのである。記憶の断片は、自分自身のために必要であるからだ。そしてこの新句(十九音)は、手前味噌かもしれないが、そのような利用にも向いていることがわかる。
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