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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「健康」と「老化予防」と「安心立命」。


私の三大モットーである。モットーというよりか、むしろ「座右の銘」。つまり、私の人生、といっても残り幾ばくもないと思うが、その短い余生で「健康」と「老化予防」と「安心立命」の三つがテーマである。

「健康」は「生活習慣」とも密接な関係があり、また「老化予防」などが複雑に影響してくる。

「安心立命」は、いわゆる「死後の問題」に関する自分なりの納得ということができる。まだ死んだことがないのでよくわからないが、死後の世界については行き先と経路を迷うことのないように、あらかじめはっきりとさせておきたい。しかし、そのアプローチは学問的な方法でなく、直感的かつ本能的で強力に推し進めたい。なぜならば、現代の学問では解決できない問題であると私は考えるからである。
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人間は本来孤独、師も弟子もなく。


一生の間に、本当の師に巡りあえる人は、何人いるだろうか。吉田松陰は、「軽々しく誰かを師としたり、誰かの師となってはいけない」と言う。それほど先生と弟子の間は、得がたいものである。

吉田松陰(1830~1859)は、幕末の思想家。欧米遊学を志してペリーの船で密航を企てたが、失敗をして入獄した。出獄後は、松下村塾を開いて多くの人材を育てた。しかし、安政の大獄で刑死。私は、ときどき松陰神社に行く。

法然と親鸞、道元と懐奘のように最初の面会によって悟るほどの力量のない私は、この歳になるまで師らしい師には出会ったことがない。そんな次第で、自分自身が師であって弟子でもあるような安易な考え方をするようになった。人間は、そんな意味で孤独であるのかもしれない。
老いたらば、納得のゆく自分の世界。


若いときには希望も大きく、可能性もあった。しかし、還暦、さらに古希を過ぎると自信もなくなってくる。健康上や体力の関係で、あまり遠くへは行くこともできない。いきおい、自分自身の限界を知ることになろう。

スポーツなどを見ても、見るだけで自分ですることはできない。また、古典の文学も理解できない。アブストラクト(abstract)の抽象的で観念的な美術などは、いったい何のことかわからない。逆にしても、同じに見える。また、交響曲などを聞くと、早く終わらないかと思う。超絶技巧の曲などは、気狂いじみて聞こえる。

とどのつまり、自分自身が納得のできる知的空間を伸ばしていくのがよいのではないか。そして、『方丈記』のがうなやみさごのことを思い出す。
目キラキラすると、しばらくパソコンやめる。


最近になって、目が弱くなったのかもしれない。少し疲れてくると、目がキラキラしてくる。輝くのではなく、見えなくなってくるのだ。目には滝のような流れが写って、それが視力を妨げる。

おそらく視神経がやられてしまったのであろう。とくに痛いとか苦痛を伴うわけではないが、視力を妨げるのは事実である。まだ、眼科に行っていないが、すぐに治ってしまうので失明などの危険はないようだ。

そんなときは、パソコンをやめる。そして、散歩に行ったりする。さらに、吉野家で牛鍋丼を食べ、キムチでビールを飲んだりする。すると、不思議なことに治ってしまう。その足で多摩川に行ったり、近くを散歩する。そして、帰ったらまたパソコンを始めることが多い。そして、そのときはもうキラキラの症状がなくなっているので不思議である。
人体の奇形は、多く化学薬品?


YouTubeにも、多くの人体の異常、奇形などが動画で報告されている。何とも困った問題である。私の独断ではあるが、おそらく何らかの化学薬品が、複雑に関係しているように思う。ベトナム戦争で行われた枯葉剤のことなどを考えると、何となく恐ろしい。

近年になって、動物などにも奇形が多く発生しているという。むろん、古くから突然変異や奇形はあった。しかし、人為的になされた結果としての事象は、ここのところ急速に増加をしているとのことである。

恐ろしい現実である。私は、なるべく化学薬品の入っていない食材を用いるようにしている。また、化学調味料などもできるだけ使わない。空気はともかく、水と食べものに関して、細心の注意を払う必要があるのではないか。化学薬品症候群を避けるためにも。
「心身を健康にする生き方」あるか?


帯津良一(おびつりょういち)先生は、「ホリスティック医学」の第一人者であられる。西洋医学は「要素還元主義」であり、人間の身体を臓器ごとに診るが、ホリスティック医学では、人間を一つの有機体として全体的に診る。つまり、臓器と臓器のつながりを考慮して、さらには「生老病死」までを考えるという。

その生老病死という言葉からわかるように、「死」の世界までを含めて医療のあり方を考えていくのである。私は、そのような医学があることを知り、驚いてしまった。

なぜならば、私は人生自体が旅であって、いつかはその旅ができなくなって、この世との別れになると考えているからです。別旅となって、再生するまでを考えると、暗くて長いトンネルのようなところではないでしょうか。そんなことを自覚することが、「心身を健康にする生き方」だと思っているからです。
内側でOK、外側で忌むのはなぜか?


内側で接しても問題なく、外側で接すると汚いことと忌むのはなぜだろうか。具体的に言うと「ウンコ」のことである。誰もが体内に宿便として大量にもっているのに、それを平気でいる。しかし、いったん出してしまうと、不潔なものとして忌み嫌う。なぜだろうか。

一つは「見えないうちは問題としない」のではないか。具体的に見てしまうと、やりきれない気持ちになる。むろん便は尿とは異なって、体内にあるときから多くの細菌が住み着いている。したがって、清潔なものではない。美しい人で清楚であっても、体内のその部分は不潔なのである。だから、『今昔物語』や芥川龍之介の平中(へいちゅう)と侍従の話ではないが、それを見たらすぐ嫌(いや)になるというもくろみは事実であろう。

そんなことを意識しないのは、私たちがルーズなためかもしれない。
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