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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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束の間の事がらなのか、人の一生。


マルクス=アウレリウスは、『自省録』の中に次のように書いている。

<人間に関することは、すべてかりそめであり、つまらぬものであるかを絶えず注目しなさい。身体と言っても、昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。だから、このほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟(う)れたオリーヴの実が、自分を産んだ大地を讃(ほ)めたたえ、自分を実らせた樹に感謝を捧げながら、地面に落ちて行くように。>

これは、すばらしい洞察だと私は思う。他に「死」に関する記述を見たが、この一生については「束の間の事柄」としてとらえている。また、「死後の名声」を望むことについても、記憶全体が消滅してしまう空しいことと言っている。
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確実に来る死を知って賢く生きよ。


マルクス=アウレリウスは、古代ローマの皇帝。終始辺境諸族と戦いながら、ストア学派の哲学者として『自省録』を遺した。その中にある死に関する言葉三つを神谷美恵子訳(岩波文庫)から引用してみよう。

<ヒッポクラテースは多数の病人を癒してから、自分自身もわずらって死んだ。……>
<死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。>
<死を軽蔑するな。……死にたいして無関心であるのでもなく、烈しい気持ちをいだくのでもなく、侮蔑するのでもなく、自然の働きの一つとしてこれを待つことである。>

マルクス=アウレリウスは、死に関して恐れていなかったことが明確であると私(Kuroda Kouta)は思う。
「死を知らず」、「死にかかわった存在」など。


死に関して、私には印象深い記述が二つあった。いずれも、なかなか優れた見解であると私は思う。まずは孔子、そしてもう一つはハイデッガー。

『論語』に孔子が季路(きろ)から「死」について問われるくだりがある。すると、素っ気なく「未だ生を知らず、焉んぞ(いずくんぞ)死を知らん」と。しかし、そうであろうか。つまり、生をきわめなければ、死がわからないのだろうか。生と死は、同じ次元で考えるものではないだろうか。

ハイデッガーは、実存主義者の哲学者。彼は考える。野生の動物は自分が生きていることの意味を問わない。しかし、人間だけが生きる目的、生き方、つまり自分の存在の意味を問い続ける。そして、死を積極的に受け止めて、「自分は死にかかわった存在である」と考えた。
欲しがるな、それに反して捨てることなり。


『一言放談』(いちごんほうだん)に、次のような条(件・くだり)がありました。

原文:<或上人同法を戒(いましめて)云、物なほしがり給ひそ。儲(たくわえ)はやすくて、捨(すてる)が大事なるにと云々。>
意味:「ある上人が念仏仲間を戒めて、『物を欲しがってはいけません。貯えることはいとも簡単ですが、むしろ捨てることが大事なのですよ。』と語られたのです。」

「同法」は単に仲間と訳しましたが、厳密には「同じ師について仏法の修行をした仲間」を言います。『一言放談』の抜粋文は、『徒然草』にも記述されている。卜部兼好(誤って吉田兼好とも)も、大いに感銘を受けたに違いない死のエピグラムである。
解脱云う、一年は無常、死のきざみなり。


学生時代に読んだ『一言放談』(いちごんほうだん)に、次のような条(くだり・件)がありました。

原文:<解脱上人云、一年三百六十日は、みな無常にしたがふべき也。しかれば、日夜十二時(とき)は、しかしながら、終焉のきざみと思ふべし。>
意味:「解脱房貞慶上人がおっしゃった。一年は三百六十日あるといっても、そのすべては無常の理(ことわり)にしたがっているのですよ。だから、その日その日が、そのまま死への刻(きざ)みと思わなくてはなりません。」

『一言放談』は、『徒然草』にも法然の言葉が引用されている。卜部兼好(うらべけんこう・誤って吉田兼好とも呼ばれている)も、大いに感銘を受けたに違いない死のエピグラムである。
一生は恥の連続、いたたまれなし。


私の能力がなかったためかもしれない。今までの過ぎた人生には、あまりにも恥ずかしいことが多い。がんばってはみたものの失敗をしたり、満足できる結果を得られなかったことがほとんど。そんなことを考えると、いたたまれなくなってしまう。

おそらく、残り少ない今後の人生でも同じことであろう。考えてみれば、このような文章を書き残すということも、恥を書き足しているのかもしれない。いずれにしても、何となく自分に愛想がつきてしまう。

何かをしていても、突然に「わっ」と叫びたくなるような思いに苛(さいな)まれることがある。記憶の中の恥の光景がよみがえったときなどは、何となく後悔の念で満たされてしまったりもする。考えてみれば、今までに能力を超えたことをしようとした当然の結果かもしれない。
楽しみは日々することが、なくなりしとき。


ちょっと不完全で、わかりにくい表現である。私に日々することがなくなったと言っても、まだ健康や老化予防などについての努力が必要。私の言うのは、年金生活者になってから、生活のための仕事が必要なくなったという意味。

残っている大仕事と言えば、いわずもがなのことを言うようであるが、自分が死ぬことであろう。それは、間もなくやってくる。なぜそのようなことがわかるかというと、あっけなく知人が次々と死んだからである。注意深い人でも死ぬのであるから、不注意な私などは例外でないと考えざるをえない。

そこで、ぼつぼつ死の研究を始めることにした。まだ、その体験を実際にしていないが何かと心配なので、いろいろと調べておいて、そのときに及んで慌てないようにしたいとつくづく思う。そんな楽しみもあるのです。
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