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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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切り詰めたたつき(たずき)見直し、乞食寸前。


私は、「吾唯足知」をだいぶ前から実践している。簡単に言ってしまうと、いわゆる「清貧」の生活である。
ときどき、パルテノン多摩の屋上階にあるつくばい風のそのデザインも見に行く。元来は仏典にあった言葉であるが、ものが豊富な現代社会には何となく忘れられていた。

しかし、政府の高官が役職におぼれて賄賂や接待を受けて、最後には失脚をしたりする。少しずつ奈落の底に落ちていくのと、まったく同じである。
いくら一時的には甘い汁を吸っても、自分の退職金で返済するというようなことになっては、愚かであって元も子もない。

なぜ、そんなことになるかというと、現代の「学校教育の歪み」であろう。
ものがあり余って、どちらかというと使い捨ての時代、そんなときにこそ、「吾唯足知」や「清貧の尊さ」を教えないといけない。物が豊かなよりも、心が豊かなほうがよいからである。
歯止めを失って育った人間は、政府の要職につくと貪欲なまでに「たかり」を覚えてしまうのかもしれない。
私は、乞食寸前になっても一向にかまわない。


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「若ければなぁ!」などと言う、老人の愚痴。


私の知人に、よく「若ければなぁ!」という人がいる。
愚かしい年寄りの愚痴である。時間というものを誤って考えている思考の誤謬であろう。

私は、いつも横井也有の『嘆老辞』や仙崖の『老人六歌仙』を思い出す。
仙崖の『老人六歌仙』の画賛に、

<しわ(皺)がよる ほくろ(黒子)が出来る 腰曲がる 頭がはげる ひげ白くなる
手は震え 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる
身に添うは 頭巾襟巻(ずきんえりまき) 杖 眼鏡
たんぽ(湯たんぽ) おんじゃく(カイロ) しゅびん(尿瓶) 孫の手

聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心がひがむ 欲深くなる
くどくなる 気短かになる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話焼きたがる
またしても 同じ話に 子を誉める 達者自慢に 人は嫌がる>

というのがあった。
これだけ現実を示されると、私は参ってしまう。
あなたは、いかがなものだろうか?


及ばれね、心と言葉、塵にも同じ。


うろ覚えであるが、「心もことばも及ばれね」とか「偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」などという言葉を覚えていたので、入院をする前に『平家物語』を読んでみた。そして、さらに『一億人の昭和史』も眺めた。

『平家物語』は、内海弘蔵のものと菊池寛のもの。前者は高校時代に古文の時間でテキストで使った原文、後者は現代語訳である。
『一億人の昭和史』は、分冊を含むと7冊の大作。

退院をしてからは、テレビ255番のヒストリーチャンネルで『映像の世紀』ちゅうのを何本か見た。だいぶ前に、NHKで放映したものである。

読んでいたり見ていると、何ともやりきれない気持ちになる。
すべてが事実を述べたものと仮定してみても、あまりにも意味のないことに人間が固執して、繰り返し同じことを争うからである。

また、宗教についてもコンスタンティヌス帝や聖徳太子のころの事情はともかく、インド独立時のガンジーの悩みなども、他人事(ひとごと)ながら、私も心が痛む。現在の核に関する両国の問題などが、当時からすでに潜在的に内在していたからである。

あっ、どうやら宗教と政治の本質的な問題になりそう。
そこで、この辺でやめる。



お互いの利権のみにて、動く愚かさ。


まったく、困ったことである。
国の指導者や行政の担当者が、レベルが低く、モラルの欠如していることには、驚き呆れるかぎり。

日本の文部・学校制度に、何か欠如があるのかもしれない。
『父母恩重経』に、

<二歳。懐(ふところ)を離れて、初めて歩く。父にあらざれば、火の身(からだ)を焼くことを知らず。母にあらざれば、刀(はもの)の指を落とすことを知らず。
三歳。乳を離れて、初めて食らう。父にあらざれば、毒の命を落とすことを知らず。母にあらざれば、薬の病(やまい)を救うことを知らず。>

というくだりがある。
基本的なことを必要な時期にマスターしないままに、単に学力だけがあって大きくなっても、まったくダメなのではないか。

単なる欲望に支配されて生きているのは、二歳・三歳児と変わりないのであろう。落ち着いて考えてみれば、「清貧」がいちばん心の安らかな状態であるようだ。
それをなぜ遠ざかる方向に、突き進んで行くのかわからない。





俯(うつむ)きて歩みたる我には、彼岸花。


小道を俯いて、何となく歩いていたときのこと。
いったい自分の病気は、どうなってしまうのだろうなどと心配事を考えながら。すると、突然にぱっと赤いヒガンバナが路傍に咲いているのが視野に入る。

その瞬間に、何かがひらめいたのだ。
そして、かなり前に、

思案して歩みをるときふと曼珠沙華燃ゆるがごとき赤が目に滲(し)む

というような短歌を作ったのを思い出した。
もしかしたら、稚拙なので学生時代だったかもしれない。

何とも、すごいことではないか。
上の短歌作品の出来が、すごいなどと言っているのではない。そうではなく、条件反射のような早さで、完全に忘れていた記憶の断片を思いつくことだ。それこそ、電光石火のように過去の経験が、頭の中で検索できることがある。

自分自身のことでありながら、人間の脳がもつ不思議さと、さらにはその不気味さに驚いてしまう。

ヨーロッパアカヤマアリの不思議な社会。


ヨーロッパアカヤマアリは、食料の一部をイモムシとの共生で得ているのだが、無駄な闘争をしないという。
むろん、そのイモムシにクモなどが襲ってきたときなどは、超音波を信号とするイモムシからの要請によって、いっせいに出陣してクモを撃退する。

また、そのコロニーの中では、目立った支配階級がないらしい。
一匹の女王アリから生まれたすべてのアリが、同じ働きをする。とくに、兵隊アリとか働きアリなどというような機能分担をしていない。

当然のことながら、仲間のアリ同士の競争や戦いはなくて、ムダなストレスを避けて、全体として平和に暮らしている。

嘘か本当かわからないが、そんなことを知った。
私は、ファーブルのような昆虫学者ではないので、そんなことはどうでもいい。しかし、昆虫社会のシステムをヒトの社会に取り入れるようにしたら、もう少し好ましい国になるのではないかと考えた。
もしかしたら、人間を昆虫にしてしまうほうがよいかもしれない。
『水棲人』にも、あるように。







一つずつ撤退したり、ドメインは今日。


最初に勢い込んで始めたホームページではあったが、訪問者がさっぱり。
つまり、計画したほどの広報結果はなかった。何となく「取らぬ狸の皮算用」とでも言ったところか。そんな次第で、意味のないムダなことをするのが面倒になってしまった。

そこで、いったん整理・縮小をすることにした。
その作業としては、

(1) 5つ以上あったホームページを2つにした。

(2) 2つあったブログを1つにした。

(3) 掲示板は、スパムのメンテナンスが煩わしくなって解約した。

(4) ドメインの解約をした。

などの作業が、ようやく今日(2007年10月23日、火曜日)になってすべて終了した。これらの結果、月々1万円近くの経費節減にもなる。

拡大をするときは、何も知らなかったせいか、「めくら蛇に怖じず」で簡単だった。しかし、いったん大きくした規模を縮小・合理化をするときは大変であることが、よくわかった。NOVAの倒産ではないけれど、……
アレキサンダー大王やナポレオンの場合もそうであったと思うが、『孫子』や『クラウゼビッツ』などにも、撤退が難しいと書いてあった。
残る人生では、あまり自分の力量以上のことはすまい。

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