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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ふと思う「こにしかめやも」、遊ぶ子を見て。


多摩川の交通公園で遊ぶ子どもを見ていて、なぜかこの言葉を思い出した。『万葉集』巻五にある山上憶良の「子等を思ふ歌一首並びに序」である。

<釈迦如来、金口(こんく)に正に説き給はく、等しく衆生を思ふこと羅ご羅の如しと。又説き給はく、愛は子に過ぐるは無しと。至極の大聖すら尚子を愛(うつく)しむ心あり。況して世間の蒼生(あおいぐさ)、誰か子を愛(お)しまざらめや。
 瓜食(は)めば子等(こども)思ほゆ くり食めば ましてしぬばゆ 何処より来たりしものぞ まなかひに もとな懸りて安寝(やすい)しなさぬ
 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる寶 子にしかめやも>
   
(釈迦如来がみずから言ったことには、「平等に人間をかわいいと思うことは、我が子のラゴラと同じである。」 そしてまたおっしゃった。「愛は、子供に対するもの以上のものはない。」 極めて優れた大聖人ですら、やはり子供を愛する心がある。まして、世間一般の人々で、誰が子供を愛さないものがあろうか。
 瓜を食べると、子供のことを思う。栗を食べると、なおさら思い偲ばれる。子供の面影は、いったいどこから来たものであろうか。眼前に、その姿がちらついて夜も安らかに眠れない。
 (反歌)銀も黄金も宝玉も何になるであろうか。それらの宝は、子供に及ぶことがあろうか。)
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