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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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金(かね)わずか、学問わずか、思い上がるな!


お金をわずかばかり持っているからと言って、思い上がってはいけません。
また、学問をしたからと言って、尊大になってはいけません。

所詮(しょせん)、人間のする範囲のことはたかが知れています。
世界中の金をもったところで、いったい何になるのでしょうか。
また、すべてを知り尽くしたとしても、それは「すべてを知らない」ということに等しいでしょう。

つまり、4桁のカウンタであれば、9999の次に0、1、2、……と戻るだけです。
9999の次に、大爆発をしたりするわけではありません。
宇宙のシステムや人間の造りは、そんなものでしょう。

あなたは、脳のもたらす幻影に惑わされてはいけません。
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あの人は「どうしているか?」、問うと「死」と言う。


久々に福祉センターに行ってみると、前に来ていた○○さんがいません。
そこで、

「○○さんは、どうしているのでしょうか?」

と、常連に聞いてみました。
すると、

「先月、死にましたよ。」

という答えが、平然と返ってきました。

次々とお迎えが来るのが、当然だと言わんばかりです。
そんなもんでしょうか。

何故に心と身体(からだ)、矛盾をするか?


どうも、「心」が曲者(くせもの)のようです。
ここで、曲者とは「怪しい(あやしい)者」や「一癖(ひとくせ)あって、油断ができない奴(やつ)」のことではありません。

それは、「表面には表れていない何かがあって、用心しなくてはならない」ことを言うのです。

例えば「人間社会のシステムがうまくできすぎていて、それ自体が曲者」なのです。そして、また反対のことも言えるからです。

だから、結果的には身体から心を切り離して考えるというような矛盾を「矛盾でなく」考えなければならなくなるのです。
ちょっと、なかなか説明のしにくいことですが、……
脳自体、ヒトに寄生をしているのかも?


人間の社会は、「多重支配」の構造をしています。
古くから王がいて、人民を支配したことを考えると、細胞レベルでも同じことが言えるのではないでしょうか。

私たちの体内に何兆とある細胞が、それぞれ互いの機能を果たしているのは、不思議なことです。また、脳が細胞で作られていながら、手術をするときには、麻酔が不要なことも不気味です。

ちょっと、中国の近代小説『顔面問答』を思い出します。
それは、目や耳、そして鼻や口が「誰がいちばん偉いか」と言って、お互いに糾弾をするのです。

そして、その結果、矛先が「眉」に行くと「眉」は言います。
「昔から、私たちはここにいるのだ!」

脳そのものが寄生体? 恐ろしいこと。


かなり以前に、ふと気づいたことである。
人間の脳は、人間に寄生した生命体ではないかという疑惑。
なぜならば、あまりにも生命という本質から離れた愚かしいことをする人類が、本来の姿ではないということに注意が向いたからである。

脳のもたらす幻影で、人間でありながら、全体として人間には考えられない愚かしい行動をする。

ミトコンドリアや白血球、さらには腸内細菌叢など他の生命体と言ってよいような組織が、人体を維持していることを考えると、脳自体についてもさもありなんと考えるのが至当なのではないか。

脳は、いわゆるアラビアンナイトの「海坊主」のようなものではないだろうか。

聡明な白川候の奥方選び。


何かで、読んだことがある。
白川候は、奥方を選ぶときに側近に言ったという。
藩の中で、あまり注目をされていないが、賢い女もあろう。容貌などは、問題でない。また、身体が不自由になっていても差し支えない。
そのようなものがいたら、私が娶る(めとる)。
そうすれば、藩の者も私に見習って、目が覚めるであろう。

御殿医が、白川候の藩邸を訪れたときである。
応対に、片足を引きずった年増な女が出てきた。医師は召使いであろうと思って、ぞんざいな言葉で取り次ぎを申し出た。そして、後で聞いてわかったことである。

その婦人は、白川候の正妻であったことを。
そして、それを見抜けずに、自分は愚かであったことも。
何で読んだことだろうか、私の記憶に鮮やかに残っているのである。
Think(シンク)して、新句作れば、真句なりけり。


これは、いったい駄洒落(だじゃれ)か?
この新句(十九音)は、駄洒落でもかまわない。

原則として、十九音の中に自分の気持ちなどを封じ込めればいいのである。舌足らずでも、仕方がない。いちおう短詞形なので、言葉の制約があるからです。

もしも、言い足りなかったことがあれば、作品の下に10行くらいでメモをしておけばよい。
おそらく、それでも満足には言い切れぬであろう。

言葉には、やはり限界がある。
余韻が残っていても、考えることが、必要であろう。
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