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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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人生に思い、残さず完全燃焼!


人は、それぞれに、それなりに生涯を終えます。
しかし、あまり他人のことを考える必要はありません。

自分自身が納得できる人生であれば、それでよいからです。
むろん、不満や思い残すことは、多くあることでしょう。
しかし、それが現実であれば仕方ありません。

とどのつまり、完全燃焼をしたいということです。
ちゃらんぽらんの生活では、自分で自分を欺いたことになりかねません。

少なくとも、自分自身で納得のできる完全燃焼をしたいものです。
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やりかけのことや作品、仕上げてみよう!


何となく、先が短くなってきました。
そこで、この辺で自分なりに集大成をしてみたいと考える。

しかし、大げさに言っても内容のないものであろう。
また、評価をされるようなレベルのものでも、決してない。

それでも、自分自身の「生きている証明」をすることは、自分自身に必要なことではないか。

つまり、自分の人生における最終仕上げは、自分の納得のできる範囲でよろしい。評価されることなどを考える必要はない。
そんなところか。
忘れてる資料などにも、目を通したし。


私たちの生活の中には、意外に途中でやめてしまって、そのままになっていることが多いものです。つまり、「やりかけ」のことが多くあるということ。

「百舌の速贄」(もずのはやにえ)という言葉があります。
百舌は、長い尾と鉤状(かぎじょう)の鋭い嘴(くちばし)をもつ鳥。攻撃的で、昆虫やトカゲ、そしてカエルなどを捕食します。

それらの獲物を木の枝などに突き刺して、速贄を作る習性があるのです。後で食べるためでしょう。しかし、百舌は多くをどこに作ったか忘れてしまようです。速贄がそのままの形で、いつまでも残っていることがあるからです。

そうなると、まったくムダなことではないでしょうか。
資料などに目を通して、再発見の喜びを求めつつ、そんなことにならないようにしたいと思います。

身の回り、病みてより後、整理を始む。


入・退院をしてから、何となく先行きに自信をなくしました。
そこで、身の回りのことを少しずつ整理をしようと考えたのです。

趣味や蒐集なども、ある程度でやめて、今までのものを整理していきたいと思います。

しかしここで整理とは、すべてを捨ててしまうことではありません。
不要な物やムダなものは捨てますが、その他はどこに何があるかを再確認します。そして、それを社会や自分自身のために、有効に活用したいのです。

実際には「宝」などというほどのことではないけれど、ちょっとした知識の断片などでも「宝の持ち腐れ」などということがないようにしたいものです。

遠回りばかりしてきた、私の過去は。


考えてみれば、私は今までに、何とまぁ「無駄で無理なこと」ばかりしてきたことだろうか。
言ってしまえば、ほとんどが無為(むい)なことばかり。

それでも、一つ一つは何とかがんばってきたみたい。
そんなことを考えれば、反省はするが後悔はしない。

あと何年、自分は生きられるだろうか?
そして、充実した日々を送れるだろうか?

身体(しんたい)が何とか健康であって、また頭もそれなりに正常であれば、それでいいんだが。
しかし、身体が不調になる心配と頭がぼけてしまう不安が、いつも心をよぎるのは、いったいどういうことだろうか。

朝起きて「今日も生きてる!」、新句を作る。


この新句(十九音)には、自分自身が「生きている証明」をするという目的もあります。

そこで、一日に一つ以上作るとよいでしょう。
とくに、その内容が文学的にどうであるとか、奥行きが深いとか、そのような必要はありません。

平坦なだらだらとしたものでも、内容の薄いものでもよいのです。
それ自体が、「生きている記録」なのですから。

そんな意味で、ぜひ新句(十九音)を始めてください。
説明は、

http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/nyu_577.html

にあります。
人間の社会、どうやら飼育場(しいくば)なのか?


何となく人間の社会は、何か計り知れないものの飼育場の感じがします。
かつては、それを神などと呼んだのでしょう。

しかし、そんなに異次元のことを考えなくても、何となくわかります。

例えば、極端に言えば市役所の人たちが「市民を飼っている」と考えることもできるでしょう。なぜならば、飼っている者たちから自分たちの生活の費用が贖える(あがなえる)からです。

それは、飛躍をした考え方のようですが、家畜を飼っている牧場主と同じ論理なのです。
また、私たちの体内にいる寄生虫の言い分とも、似ているかもしれません。
最初に書こうとしたことをやめると、上のように意味がわかりにくくなるようですね。


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