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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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無為のまま、することばかり多い人生。


何のために、何をしているか?
ふと、そんなことを考える。

そして、自分の人生が「中途半端で、空しく終わるのか」などとも思う。
しかし、それがどうして「そんな考えになるのか」などについては、配慮が届かない。

まったく、何をしているのだろうか。
そもそも、「無為」とは何であろうか?

「有意義」という言葉がある。そのアントニム(反義語)なのであろうか。
そんなことを考えること自体が、いわゆる誰も気づいていない「教育の歪み」なのではないか。
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そこにいて、楽しくもある新句の世界。


わずか十九音で、何とか考えを言う。
俳句や短歌のように、難しくはない。

言い切れなかったことは、その下に十行程度書き足しておけばよい。
つまり、そことは自分の「精神世界」を構築することではないか。
そして、そこに漂っている。

そんな楽しさは、それこそ自分自身の「生きている証明」でもあろう。

つまらないことでも、自分に意義があれば、それでよい。
でも、意義のあることでも、面倒であれば何となく遠ざかってしまう。

そんな意味で、これは私にとって手軽な短詞形。
つきつめて求むるものは、「心地よさ」なり。


福祉センターに行くと、お前は「何を求めているか?」とか「何が人生の目的なのか?」などと聞かれることがある。

私は、「脳のもたらした幻影」をあまり信じない。
動物の社会を観察したり、昆虫の世界を眺めたりして、わかったからだ。
人間のことについては、例は少ないのであるが「狼少女・カマラとアマラ」や「アヴェロンの野生児」などについて考えてみた。

私は、「人間の思考や哲学は群生(群棲)の中で、何とも方向を失ってしまったみたい」だと思う。
そして、時間と空間、さらに知的空間その奥義までを考える。
揚げ句の果ては、「無」や「空」という状態まで云々。

しかし、私は日々単に「心地よさ」を求めているようだ。
自分で、自分を観察し、直感で感じてみたら。
音と絵を一緒に入れるのは、面倒だ!


細かい設定をこのブログの管理ページにある「ファイルアップロード」でいちいち行うのは、ちょっと面倒くさい。

私は、面倒くさいのが大嫌いだ。そこで、URLの貼り付けと相成る。
例えば、

回創法・自福書デモ

のようにである。
ただし、上記の文字部分とURLのコピペを一緒にできないので、2回に分けて行う。

しかしこれは、すでに何回か行っている方法で、そのままホームページに持って行ける。音だけでは、ホームページに行ってからWindows Media Playerがうまく動作しないようだ。
為念。

いろいろと工夫をしよう! このブログでも。

音を鳴らしてみよう。右向きの三角を2回クリック。





次に、動画を入れてみよう。

銀河鉄道の夜

上のチラチラ図をクリックするといいかも?
「無」と「空」について、今朝インプットしたばかり。


今朝インプットした「無」と「空」である。
三鷹市美術ギャラリーの作秋院書展に行ったら、作左部先生のそれがあったのでびっくりした。

「無」と「空」

画像をクリックをすると別画面になって、ちょっと大きくなるかも?

帰りにはJRで八王子へ出て、八王子保健所に寄って京王線で帰宅。
楽しくて、有意義な半日であった。


「無」と「空」と「時間」が、同じ概念と見る。


『般若心経』を調べていて、道元の『正法眼蔵』や旧約聖書の『伝道の書』などを思い起こすと、ふとタイトルのようなことを私もついに見つけました。

また、かつて習った樫山欽四郎先生の

<時間をおいて時はない。が、だからといって「つらなり」がないわけでもない。「つらなり」があるからといってそれに任せるならば、「自己の時なる道理」は消え去るであろう。だから「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時々」である。時は過ぎたのではあるが、過ぎたのではない。つらならないのでもなく、つらなるのでもない。>

などという、べらぼうな理論の実態を何となく垣間見たような気がする今日この頃なんです。
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