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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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度忘れか? 名前を忘れ、困ってしまう。


老いてくると、耄碌(もうろく)をするのであろうか。
人の名前や物の名前が、なかなか思い出せないときがある。

誰かと話をしているときになど、言おうとして思い出せない。それを言おうとしているときには、イメージとしてわかるのであるが、どうしても具体的な名称が浮かばないのである。

したがって、相手には何も通じない。
まったく、困ったことである。

おそらく、脳の記憶は脳自体ではなく、そこに流れている血液が担っているのであろう。つまり、血液が劣化してくると、記憶が保持できなくなるのではないだろうか。
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「生死」「取捨」「有無」など、すべて「空」の空間。


だいぶ前から、『般若心経』や『伝道の書』で言う「空」とは何かと考えている。
もうじき私も、その「空」の空間に溶け込まなければならないからである。

生の後に、死があるのではない。(と、私は思う。)
また、そこから取っても自分が増えるわけでもない。また、そこへ捨てても減らない。「取捨」は、いわば脳のもたらした幻想。
さらに、ものが有るのではない。また、無いのではない。無いというのは、単に「無い」という状態が、そこにあるだけなのだ。それは、時間の概念を考えると、何となくわかる。

そんな「システム空間」を考えてみた。そして、いままとめている。
なお、ここで言うシステムとは、「生死」「取捨」「有無」から、それぞれ一文字を取って命名をした。

「生きている証明」として、一日一句。


あなたを初めとして、親しい人々に日々のお便り。
いろいろと忙しい日々、あるいはなすべくもない日がな一日。
そんな中で、何となく自分自身を見失いがち。
そこで、一日一句。

やってみると、俳句や短歌よりも、やさしく簡単。
むろん、エッセーなどよりは手軽だし、短編小説や私小説などのような構成に関する面倒くささがまったくない。メモ日記のようなものである。

だから、ちょっとした断片でも、かまわない。
そんなわけで、少しも負担にはなりません。

あなたも、この短詞形をいかが?
吹く風は涼しくなりて、秋を感じる。


「暑い暑い」と言っていたが、急に涼しくなってきた。
ここのところ、私は抗生物質を飲んで、身体の血液を浄化しようとしているが、それでも季節感などには敏感。
限られた文字数で、日々のことがらを綴る。そうすると、たまたま次のようなこともある。

実は、テーマの新句(十九音)はもしかしたら下記の「本歌取り」か、さらに悪く言えばパクリであろうかなどと気づく。

<ふく風のすずしくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり>

『金槐集』にある源実朝の作品。

いかがなものだろうか?

肉体は、皮膚一枚に包まれており。


いったい、何のことじゃ。
ここのところ、私は「空」という概念について考えている。
そして、驚くことにホーキングが『般若心経』と、とどのつまり同じことを言っているのを不思議に思う。その時間のギャップを考えてみて。

そこで、私もミクロコスモスに関して考えついた。「内管」や「外管」という概念から始めて。自分自身が、すでに細菌や化学物質に犯され始めてしまった被害意識によるのかもしれない。

自分自身を皮膚で囲まれた一つのシステム系(生死・取捨・有無の集合)と考えるときに、人間の脳がもたらす不都合や諸悪が始まるようだ。現在の人間社会である。

システム系については、他の動物や昆虫についても、調べているところだ。そんなことで、日々忙しい。

八月も過ぎ去りてゆき、余命幾ばく?


八月には終戦記念日があったり、私の誕生日がある。
暑い日が続いて、身体には堪える(こたえる)月でもある。
それでも、あっという間に過ぎてしまった。
そんな中、血液の中に化学物質や病原菌が入ってしまったらしく、ここのところずっと病院がよい。
きょうも、通院である。

結果が思わしくないので、何となく心細い。
抗生物質を続けて飲むわけであるが、副作用が出てしまって、思うようには快癒しないようだ。

最近は、ほとんどの人がすでに私のような状況になっているとのことである。そんな人が、日本国内に100万人もいるという。
そんなわけで、「青空の入門・創作ページ」の「健康入門」にまとめているところだ。


親が親なら子も子、師が師なら弟子も弟子。


一字余りの句である。十音目の次で読点「、」、続く十音が一音の字余り。
そんなわけで、ちょっと言葉のリズムと響きが悪い。

最近は、躾(しつけ)がなっていない。そんなわけで、「身」が美しくない。
子どもは、驚くような犯罪を次々とする。しかし、本人が後で何をしたかわかっていない有様。考え方が身勝手で、支離滅裂なのだ。
また、弟子が師の指示などは聞かない。相撲でも、伝統などは関係なく、ただ強くあればよいと考えるのであろう。意外にお粗末である。
もっとも、日本はかつてモンゴルという国の属国か、一つの州になりかかったことがあるから、仕方がないのかもしれない。

芥川龍之介が(赤ちゃんとして生まれたその日)「親子になったときから、人生の悲劇が始まる」、そして吉田松陰は(後で後悔をするから軽々しく)「誰かの師になってはいけない」というようなことを言っている。
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