rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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呂律(ろれつ)なのか、「つーつーれろれろつーれーろ」?
呂律(ろれつ)とは、言葉を発音するときの調子です。
「呂律が回らない」と言えば、舌がよく動かないために、言葉がはっきりしないことを言います。
もともと、呂律とは古典音楽で旋律や調子のことを言った言葉です。
そこで、兼好法師の「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」ほど複雑ではありませんが、私は
<つーつーれろれろつーれーろ>
の元の意味が知りたいのです。
何かの音楽のリズムと音程を表しているのでしょうか。
もしかしたら、越天楽(えてんらく)?
呂律(ろれつ)とは、言葉を発音するときの調子です。
「呂律が回らない」と言えば、舌がよく動かないために、言葉がはっきりしないことを言います。
もともと、呂律とは古典音楽で旋律や調子のことを言った言葉です。
そこで、兼好法師の「むまのきつりやう、きつにのをか、なかくぼれいりぐれんどう」ほど複雑ではありませんが、私は
<つーつーれろれろつーれーろ>
の元の意味が知りたいのです。
何かの音楽のリズムと音程を表しているのでしょうか。
もしかしたら、越天楽(えてんらく)?
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蓮根(れんこん)は蓮(はちす)の根なり、泥土(どろつち)の中。
蓮(ハス)は、水面で美しい花を咲かせます。
とくに、白い蓮の花は美しくもあり、気高くもあるでしょう。例えば、「白万万」などです。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の極楽(ごくらく)の記述を思い出してください。
さらに、さかのぼって『法華経』の原名が『正しい教えの白蓮』であることも印象的です。
水上にあって美しい蓮の花。しかし、その根は水中の芥(あくた)の中で育ちます。つまり、泥の中にいても美しい花を咲かせることができるのです。
どうも、思いつきではなかなかうまいことが書けません。
じつは、まだ「れ」と「ろ」で始まる作品がなかったので、「蝋燭は、……」の新句(五十音)とともに、この記事を書いているのです。
蓮(ハス)は、水面で美しい花を咲かせます。
とくに、白い蓮の花は美しくもあり、気高くもあるでしょう。例えば、「白万万」などです。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の極楽(ごくらく)の記述を思い出してください。
さらに、さかのぼって『法華経』の原名が『正しい教えの白蓮』であることも印象的です。
水上にあって美しい蓮の花。しかし、その根は水中の芥(あくた)の中で育ちます。つまり、泥の中にいても美しい花を咲かせることができるのです。
どうも、思いつきではなかなかうまいことが書けません。
じつは、まだ「れ」と「ろ」で始まる作品がなかったので、「蝋燭は、……」の新句(五十音)とともに、この記事を書いているのです。
蝋燭(ろうそく)は、燃え尽きるとき、輝きを増す。
蝋燭の燃えるのを、じっと見ています。
すると、最後に燃え尽きて消える寸前に、一段と明るく輝きを増します。
私は、お寺などでそれを見ていると、いつも思うのです。
人生も、そうありたいと。
つまり、高齢になって先が短くなっても、何かに打ち込みたい。
例えば、親鸞は八十五歳を過ぎてから、物に憑かれたように執筆をしたと言います。
また、貝原益軒が大著述家としての本領を発揮するようになったのは七十歳からです。主要な著書だけでも99部251巻にもなるといいます。有名な『養生訓』は、死ぬ前年の84歳のときに書かれました。
人生に何となく疲れちゃった私にとっては、羨ましい気力です。
蝋燭の燃えるのを、じっと見ています。
すると、最後に燃え尽きて消える寸前に、一段と明るく輝きを増します。
私は、お寺などでそれを見ていると、いつも思うのです。
人生も、そうありたいと。
つまり、高齢になって先が短くなっても、何かに打ち込みたい。
例えば、親鸞は八十五歳を過ぎてから、物に憑かれたように執筆をしたと言います。
また、貝原益軒が大著述家としての本領を発揮するようになったのは七十歳からです。主要な著書だけでも99部251巻にもなるといいます。有名な『養生訓』は、死ぬ前年の84歳のときに書かれました。
人生に何となく疲れちゃった私にとっては、羨ましい気力です。
可能性、失いたるは齢(よわい)のためか?
若いころには希望に満ちていた自分が、いつの間にか衰えてしまっている。つまり、希望が次第に小さくなってしまった。
かなりの年齢に達していることを「高齢」とか「老齢」と言い、「年には勝てない」などと言う。
その理由は、年をとると「気力はあっても、体力の衰えはどうしようもない。」からではないか。
「年に不足はない」などとも言うが、「何かするのに、十分な年齢に達している」ということよりも、「長生きをしたので、いつ死んでもよい」などという投げやりの意味に使う。
いずれにしても、歳とともに可能性は減少してしまうようだ。
若いころには希望に満ちていた自分が、いつの間にか衰えてしまっている。つまり、希望が次第に小さくなってしまった。
かなりの年齢に達していることを「高齢」とか「老齢」と言い、「年には勝てない」などと言う。
その理由は、年をとると「気力はあっても、体力の衰えはどうしようもない。」からではないか。
「年に不足はない」などとも言うが、「何かするのに、十分な年齢に達している」ということよりも、「長生きをしたので、いつ死んでもよい」などという投げやりの意味に使う。
いずれにしても、歳とともに可能性は減少してしまうようだ。
原因のまだわからない病気が三つ。
私のもっている『家庭の医学』(監修 中尾喜久ほか)という本には、「原因不明の全身疾患」として、
ベーチェット病
サルコイドーシス
免疫不全症候群
の三つが書いてある。
その「免疫不全症候群」が、いわゆるエイズ(AIDS)。ウイルスの一種であるHIVの感染によって生じるらしい。私が診断された血液が異常になった状態が、どうやらそれであるらしい。
本来、私たちの身体は、病原体の侵入に対して免疫機能があるのだが、免疫機能が低下すると感染への抵抗力も弱まる。それには、多くの原因があるので「症候群」と言う。
何とかして、身体を元の状態に戻して、免疫の機能を取り戻したい。
私のもっている『家庭の医学』(監修 中尾喜久ほか)という本には、「原因不明の全身疾患」として、
ベーチェット病
サルコイドーシス
免疫不全症候群
の三つが書いてある。
その「免疫不全症候群」が、いわゆるエイズ(AIDS)。ウイルスの一種であるHIVの感染によって生じるらしい。私が診断された血液が異常になった状態が、どうやらそれであるらしい。
本来、私たちの身体は、病原体の侵入に対して免疫機能があるのだが、免疫機能が低下すると感染への抵抗力も弱まる。それには、多くの原因があるので「症候群」と言う。
何とかして、身体を元の状態に戻して、免疫の機能を取り戻したい。
貧しさに、耐えて忍べば、楽しかるべき。
『論語』に書かれている顔回(がんかい)は、貧乏でした。しかし、心が豊かであったために、学問に励んで日々を楽しく過ごしました。
残念なことに、若くして亡くなり、孔子を悲しませたということです。
『徒然草』に出てくる許由(きょゆう)という人も貧乏でした。
その第十八段には、次のように書かれています。
<人は己をつゞまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を有(も)たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀(まれ)なり。
唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさご(瓢)といふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬(むす)びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中(うち)涼しかりけん。>
許由に続いて、孫晨(そんしん)のことも書かれています。
ご関心のある方は、『徒然草』の第十八段をお読みください。
『論語』に書かれている顔回(がんかい)は、貧乏でした。しかし、心が豊かであったために、学問に励んで日々を楽しく過ごしました。
残念なことに、若くして亡くなり、孔子を悲しませたということです。
『徒然草』に出てくる許由(きょゆう)という人も貧乏でした。
その第十八段には、次のように書かれています。
<人は己をつゞまやかにし、奢(おご)りを退けて、財(たから)を有(も)たず、世を貪(むさぼ)らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀(まれ)なり。
唐土(もろこし)に許由(きょゆう)といひつる人は、更に身に隨へる貯へもなくて、水をも手して捧げて飮みけるを見て、なりひさご(瓢)といふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝にかけたりければ、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また手に掬(むす)びてぞ水も飮みける。いかばかり心の中(うち)涼しかりけん。>
許由に続いて、孫晨(そんしん)のことも書かれています。
ご関心のある方は、『徒然草』の第十八段をお読みください。
これでもか? これでもか? 繰り返すか? バカは?
バカな人間は、しつこいほど繰り返しをします。
おそらく、私はその部類でしょう。
しかし、それはそれでよいのではないでしょうか。
パンダカかはブッダに言われて、「塵を除く!」という言葉を数十年も唱えたといいます。なかなか覚えられなかったからです。
しかし、考えてみれば人生そのものが反復の歴史のようでもあります。
「旧約聖書」にある『コヘレットの書』(「伝道の書」とも言う)には、そのようなことが書かれています。
つまり、「日はまた昇る」のです。
何かをすると、やがて忘れてしまいます。
そして、また同じことを始めるのです。
そのようなことが遺伝子に組み込まれているので、ふとデジャビュ(既視感)のような感覚が生じるのでしょう。
バカな人間は、しつこいほど繰り返しをします。
おそらく、私はその部類でしょう。
しかし、それはそれでよいのではないでしょうか。
パンダカかはブッダに言われて、「塵を除く!」という言葉を数十年も唱えたといいます。なかなか覚えられなかったからです。
しかし、考えてみれば人生そのものが反復の歴史のようでもあります。
「旧約聖書」にある『コヘレットの書』(「伝道の書」とも言う)には、そのようなことが書かれています。
つまり、「日はまた昇る」のです。
何かをすると、やがて忘れてしまいます。
そして、また同じことを始めるのです。
そのようなことが遺伝子に組み込まれているので、ふとデジャビュ(既視感)のような感覚が生じるのでしょう。