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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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脳のない動物もあり、例えばクラゲ。


クラゲ(海月、水母)のような刺胞動物は、散在神経系と言って、脳がありません。そして、その神経系の形で一方的に人間が高等生物か下等生物かを分類する。したがって、クラゲは下等生物ということになる。

しかし、エチゼンクラゲなどを見ていると、あたかもUFOの編隊のように行動している。下等などというのは、もしかしたら思い違いかもしれない。

死後の世界などを考えるのは、脳の働きであって、死んで脳が焼かれてしまえば考えることができないから、無意味になってしまうと言う。そこで、脳のない生物に考えが及ぶ。脳をもたない生物は、ホメオスタシスで制御されているらしい。人間でも、「いま血糖値が高すぎるから、インシュリンを膵臓に作らせよう」などと考えてするわけではない。

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曾野綾子、有吉佐和子、多くを学ぶ。


曾野綾子や有吉佐和子は、勉強家だったかもしれないが、ここでは、私が曾野綾子や有吉佐和子から多くを学んだという意味。新句(十九音)では、自分自身で文の意味がわかればよい。生年の同じこの二人を覚えておきたかったことも、この新句(十九音)にした原因。

曽野綾子(そのあやこ 1931~ )は小説家。本名は三浦知寿子(ちずこ)で、夫は作家の三浦朱門(しゅもん)。各国を取材して、戦争・社会・宗教などのテーマで執筆。作品に「遠来の客たち」「神の汚れた手」など。「戒老録」には「もらうことを要求するようになった人を、何才からでも老人と思うことにしている。」「愚痴を言って、いいことは一つもない。愚痴を言えば、 それだけ、自分がみじめになる。」など。

有吉佐和子(ありよしさわこ 1931~1984)も小説家。「恍惚(こうこつ)の人」「複合汚染」などで現代の社会問題を描いた。「華岡青洲(はなおかせいしゅう)の妻」「出雲の阿国(おくに)」などがある。
愚かさが争いとなり、すべて失う。


人間の欲望には、キリがないのかもしれない。イソップだったろうか、「肉をくわえて川を渡る犬」というのがあった。自分の姿が水に写って、その口にある肉が大きく見えたので、奪おうとして吠えた。すると、自分自身の肉が水中に落ち、流れていってしまった。」という。

つまり、自分自身のものに満足をしないから、次々と欲望が広がる。個人の場合もそうであるが、国家間でも起こる愚かしい問題である。

他人に取られないために、軍備を拡張する。その費用が、バカにならない。いきおい、国民の生活を困窮させる。むしろ、取られてもよいくらいの覚悟をしたほうが、よいのかもしれない。無抵抗なために侵略を受けて、国際間で見放されるような国であれば、その国の存在自体が、すでに意味がないかもしれないからである。
散歩して、焼きたてパンを食べる楽しみ。


小さい散歩をする。かつては、かなり遠いところまで行ったが、最近になって遠いところまでは行けない。足が弱くなったからである。

せいぜい、多摩川の堤防を散歩する程度。そして、帰りには吉野家かルパに寄る。吉野家は、ふつう牛丼。夏場には、鰻丼がある。ルパでは、焼きたてパン。アイスコーヒーとともにいただく。ルパでなく、ミスドのときもある。さらに、吉野家とルパまたはミスドの梯子をすることもある。

何を食べても腹が減っているときは、とてもおいしい。食べながら、いろいろなことを考える。とても、こころが安らぐ時間である。
健康についての話題、フォーラムでする。


自分の健康に関する話題などは、日本健康会というフォーラムで行うとよい。フォーラムは(forum)、古代ローマにあった集会場の広場のこと。それに因んで、パソコンのネットワーク内に設定された共通の関心をもつ者が集まる場所を言う。つまり、フォーラムディスカッションの略。

フォーラムディスカッションは、集団討議の一形式。示されたテーマに関して出席者全員が討議に参加する。古代ローマでは、この討議方式が行われたという。

日本健康会は、健康についての話題をフォーラム形式で行う。健康や老化予防、さらに安心立命などは、個人差が大きいのでいちがいに結論は出ない。そこで、多くの人の意見が必要になる。そして、その中から妥当な結論が出てくる。ちょっと公開討論会と似ている。
「疲れた」という状態が数日続く。


いったい「疲れた」ということは、どういうことだろうか。もしかしたら、疲労素のようなものがあって、身体の中に貯まるのかもしれない。金を貯めたら「金持ち」、疲れを貯めたら「疲れもち」であろう。その「疲れもち」になってしまった。

いつごろからだろうか。なかなか疲れが、取れないのである。金持ちが金を使ったら、金持ちでなくなる。だったら、疲れもちが疲れを使ったら、疲れもちでなくなるのではないか。しかし、疲れを使うとは何のことだろうか。

餓鬼がいくら食べても腹が減っているのと同じで、何となく身体の効率が悪くなったことを思い知る。あたかも古いバッテリーがいくら充電をしても、すぐに放電してしまうことと似ているのではないか。
つくづくとダメな自分に愛想がつきる。


何をやってもダメな自分に愛想がつきて、うんざりし始めたのが還暦を過ぎたころから。若かった時代は自分自身の可能性を信じていたが、加齢とともに体力が失われて、とうとう力の限界を感じるようになった。

そして、自分の能力がないことを知るとともに、決断力がなかったことも何となくわかってきた。確固たる信念で物事を進めればよいのだが、自分自身で自分を疑いながら試みるような悪い癖がついてしまった。

しかし、日々のワークに飽きてしまわないだけ、ましなのかもしれない。何かと投げ出したいこともあるが、それでも何とか続いているのは、根性のたまものだろう。ホームページやこのプログなども、実際には意味のないことかもしれないが、それでも「日々記憶の断片」などと言って、自分自身のノルマにしているのである。老化防止の一策として。
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