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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「でん正」の下で、がんばる「陝右の人」。


これだけでは、いったい何のことかわかりません。だからここに、説明をしておきましょう。

高幡不動尊の山門に、阿(あ)と吽(うん)の仁王が二体、左右におられます。その向かって左側の仁王の横の柱です。そこには、かなり大きな「でん正」という千社札が貼ってあります。

その下です。「陝右の人」という丸い散華札(さんげふだ)が貼ってあります。実際には、「陝右の人たち」となっていますが、その散華札(千社札)のことを言っているのです。その札は、パソコンの剥離紙(はくりし)を利用していますから、あまり強力ではありません。そこで、左右からめくれて落ちてしまいそうなのです。それでも、正月三十万人の人を見守って、まだがんばっているようです。
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いっぺんにはできないので、少しずつする。


何事も、いっぺんにしようとすると、大変である。私は根(こん)がないので、途中で飽きてしまったり、いやになってしまう。したがって、大概のことは少しずつすることになる。

そんなために、いきおい「百舌の速贄」(もずのはやにえ)のような現象が生じてしまう。見苦しい限りであるが、仕方のないことである。「百舌の速贄」とは、モズが枝に突き刺しておく虫などである。おそらく、後で食べようとして忘れてしまうのであろう。それが、他の鳥たちの餌になるので「供物」のような感じとなって、そのように言うのであろう。

しかし、私の仕掛かり中原稿などは、見苦しいだけでなく自分自身でさえも、何がなんだかわからなくなってしまったものがある。つまり、何のために何をしているのかが、後になってみると理解ができない。なんとも、お恥ずかしいかぎりである。
われわれの未来は暗い、貧しき制度。


われわれと言うと、ちょっと問題があるかもしれない。年金生活者の私と妻にとっての言い分である。介護保険などについて、つくづく考えてしまう。現実を知ると、この国に未来はないのかなどと憂慮してしまう。

報道には、妻が認知症になったために管理職を辞めて、介護をしなければならなくなったビジネスマン。母親の介護をする人がいないので、大学を退学して看病にあたる娘さん。まったく、やりきれない思いがする。

日本の産業を一線で荷うサラリーマンや高度な学問をこれから修めて社会に出ようとしている人の足を引っ張るような精度は、そもそも間違っているのではないか。そんなことに甘んじなければならないような制度では、まったく困ったことである。私も妻も、今のところは何とか健康であるが、先行きのことを考えると気持ちが暗くなってしまう。
久々に護摩に参加し、こころ清まる。


私と妻は、とくに縁起をかつぐというわけではないが、一年に一度くらい高幡不動尊の護摩に参加する。堂宇には、不動尊の坐像左右にコンガラ童子とセイタカ童子が立っている三尊。かなり大きなものである。火を焚くので、仏像はすすけて落ち着いた色をしている。

季節が変わって妻が病気に負けないように、今回は身体安全の祈願をした。いろいろな願望があるが、健康・老化予防・安心立命などを願う前に、まず妻の身体安全を祈ったのである。

中央のお坊さまは緋の衣を着ていて、貫主というだけあって、なかなか厳かである。他のお坊さまは、緑色の僧衣だった。読経がすむと、簡単な法話があり、和やかな雰囲気であった。私たちは、何となく身体やこころが清まった感じがした。
誰も見ぬホームページとブログのメンテ。


ホームページを始めて、すでに五年以上になる。しかし、その割には見られていない。つまり、訪問者が少ないのである。このブログも、そうである。

おそらく、内容が魅力ないもののためであろう。自分では、せっせとがんばって作ったものの面白くなくて、見るに値しないものである。それでも、自分自身では日に何回か見るのである。

「健康」と「老化予防」と「安心立命」をテーマとしたものであるが、それらは生きていく上に必要だと考えるのです。したがって最初は、健康でありたい人、老化予防を願う人、安心立命を確立したい人には、参考になるかもしれないと考えました。しかし、現時点では訪問者が少なく、自分自身のためにメンテナンスをしている次第です。
気が違うのではないかと心配をする。


古希を過ぎたころから、何となく記憶力が弱くなった。度忘れなども、ときどきする。また、考えてみればうろ覚えのことが多い。

さらに心配なことがある。それは、気が違ってしまうのではないかということ。何でそんなことを心配するかというと、脳の記憶回路が正常に働かなくなって、コントロールを失ってしまいそうであるから。

気が違うと言っても、発狂をして暴れたり、叫んだりするのではない。正常な判断ができない状態になるんじゃないかと心配をするのである。そんなこと、健康であれば心配をすることなどないが、現代の食糧事情を考えるとムリで化学薬品の摂取量がかなり多い。食べ物だけでなく、食器を洗う洗剤なども要注意。体内の化学薬品は、次第に脳の機能をダメにしていくからである。

ないものをあると認める脳の不気味さ。


人間の身体は、分子からできている。その分子は、原子の結合体。原子は物質の基本的な構成単位で、最小の微粒子。その原子は、原子核とそれを取り巻く一個または複数個の電子からなり、1億分の1センチメートルほどの大きさ。さらに電子は、原子の内部で原子核の周りに分布している。

つまり、実際には限りなく小さなものの集合体が私たち。しかも、その集合体は疎(そ=あばら)である。

また、概念として「幸福」や「健康」なども考える。もともと、それらは一つの状態であり、恒久的なものではない。さらに、生老病死(しょうろうびょうし)や喜怒哀楽(きどあいらく)などの概念も、脳が作り出した幻影であろう。つまり、脳は一連の夢幻泡影(むげんほうよう)なのである。
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