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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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新たなる場所の楽しみ、後の楽しみ。


ちょっとわかりにくいことかもしれない。プチさん(プティ散策)で新たな場所を尋ねて見る楽しみ。今までに行ったことがないので、あらかじめ想像をする。すると、想像通りだったりすることがある。しかし思いもよらなかったほど違う場合もあって、自分ながら驚いてしまう。そんな楽しみもあるのだ。

後の楽しみは、何のことはない。昼過ぎまで歩き回ったために、少しばかり疲れて聖蹟桜ヶ丘駅まで戻ってくる。腹も減っているし、喉も渇いている。そこでたいがい、吉野家とミスタードーナツの梯子(はじご)をするのである。つまり、牛丼とビールの楽しみ。さらに、ドーナットとブレンドコーヒーの楽しみ。

もっとも帰ってから、行ったところで撮った写真の整理をする楽しみも残っている。忘れないうちに、整理をしないと忘れてしまうことがあるからでもある。
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何回か行ってみて知る、その土地のこと。


最初に行ったときには、勝手がよくわからないので、戸惑ってしまう。しかし、二回目以後は何とか道がわかってくる。どこをどう行ったらよいかもわかり、新たな発見などをする心のゆとりが生じる。

また、最初に受けた印象と異なった感じがすることもある。別の見方ができるようになっているからであろう。そんなわけで何回か行くと、その土地のよさがわかってくる。

プチさん(プティ散策)は、言葉通り「小さい散策」である。ごくふつうの散歩と考えてもよいが、いろいろと考えながら歩くこともある。逍遥(しょうよう)という言葉があるが、むしろそれに近い。気ままにあちこちを「そぞろ歩き」するのであるから、何回か行ってみると、いろいろなことがわかってきて面白い。
近道は、知ることよりも考えること。


実際の道もそうであるが、物事を処理するときに一般的なことである。確かに何一つ知っていなければ、進むことさえもできない。しかし、単なる知識の塊(かたま)りでは応用も効かないし、機転も利かないだろう。ある程度の基本知識があって、それを素(もと)に考えて結論を出すことが重要である。

例えば、「三角形の二辺の長さの合計は、他の一辺の長さよりも長い」ということを知っているでしょう。すると、道を抜けるには、三角形の一辺を求める。しかし、必ずしもそれがベストとは限りません。

なぜならば、いくら短い距離でも坂があったり、危険があるような道は避けるべき。やはり、安全で確実な方法のほうが、少しばかり距離が長くなっても、よいでしょう。知ることも大切ではあるが、そのときどきによって考えて結論を出す姿勢が、より好ましいのではないでしょうか。
願わくば、記憶とともに再生したい。


できることなら、次に生まれ変わるときには、前生つまり今生(こんじょう)の記憶や知識をもって、生まれ変わりたい。そんなとっぴなことを考えるのは、自分なりにわけがある。

今までは、赤ちゃんからすべてをやり直すのが人生だと思っていた。しかし、再生というのは一連の続きという意味をもつことが何となくわかった。今生のからくりを垣間見たからである。だから、何回やっても同じというようなことは絶対にない。

今生では、プラズマと言えば格好がいいが、むしろ線香花火のような人生であった。チロチロと、小さく燃えただけである。また、麻雀をやってハコテンになったようでもある。次の半ちゃんに期待したい。そんな意味の再生である。そのような素晴らしい再生をできる人が、百万人に一人くらいはいるようだ。私は、そのような人になりたいと思うのだが、……。

よくもまぁ、恥書き連ね平気でいれる。


私の作ったホームページのことである。また、このプログも、そうである。いま考えてみると、最初のころは何もわからないままに、我武者羅になり作った。それが読み直してみると、何とも恥ずかしい内容である。

そこで、もう一度すべてについて見直してみることが必要であろうか。しかし、それも何となく気が進まない。そんなわけで、そのままになっている箇所が、多く残っている。

とどのつまり、いくら書いても書ききれるものではない。その時点では、考えられるかぎりを述べたつもり。そんなことを言えば、人生そのものも、そう。後になってみると片手落ちの箇所が、あまりにも多いことを知る。よくもまぁ、恥を書き連ねたものと思う。でも正直に言うと、それを平気でいられるというのは、嘘ではないかとも思う。
生かされている心地して日々過ぎていく。


若いころは、自分が「生きている」と思うだろう。しかし、ある程度の歳になると自分は「生かされている」と考えるようになる。誰もが一律にそうであるとは言えないだろうが、少なくとも私の場合はそうであった。

つまり、全体の中で「生かされている」ような感じなのである。そして、それは「金魚が飼われていたり」「鶏が飼育されている」のと同じような環境ではないかと、何となくうすうす感じる。

さらに言うと、自分が何者かに作られ、ある環境の中に置かれているのではないかというような疑問。しかし、そのことを忘れがちで認識できない。むろんそんなことを頭から否定する人たちもいるだろう。その何者が何かなどを考え出すと、それで馬鹿にされてしまう。私は、神によって動かされているなどとは言わないが、何者かが必ずいるように思う。
雨・風の強い日、雪の日は部屋にいる。


雨が激しく降っていたり、強風が吹いている日に、なるべく私は出かけない。むろん、雪の日もそうである。風邪をひいたり、物が飛んできて当たったり、また滑って転び怪我をしたりするからである。

「君子(くんし)は危(あやう)きに近寄らず」というが、まったくその通りである。私は君子ではないが、危険なことははじめから避けて、身を慎み守るほうである。臆病なのかもしれない。もっとも、若いころはそれほどでもなかったが、老いて身体の不自由が出てくると、雨・風・雪にも恐れてしまう。

よく言ったもので、あまりにも有名な言葉だから、私は『論語』かなぁと思って調べた。しかし、そうではなくて『春秋公羊伝』の「襄公二十九年」にある「君子不近刑人」ということである。
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