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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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少しずつホームページを整理していく。


かなりの日時が経ってしまうと、今までにした追加や修正が重複していたり、舌足らずであることに気付く。そこで全体を見直し、少しずつホームページを整理修正していかなければならない。そして全体をすっきりしたわかりやすい体系に直していきたい。

自分自身でも何がどこにあって、どうしたらそこを見られるのかがわからなくなってしまうことがある。グーグルなどの検索で、自分自身のホームページをやってみても、該当がなかったりする。

ふつう、検索の言葉に「site:http://www.riksys.com/」を加えて捜すが、新しいホームページのほうも別に捜さなければならない。そんなことでホームページ三つとプログ二つ、合計五つのサーバーに対する自分自身用の総合索引をやはり作る必要がありそうだ。しかし、日本健康会Facebookページは記事全部がGoogleやYahooに拾われているので便利である。
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今までに訪ねた場所の確認したい。


プチさん(プティ散策)と言って、今までにずいぶん多くの場所を訪ねた。たいがいは初めてのところで、デジカメで景色や建物を撮影した。しかし、勝手がわからないままに間違った記録があるかもしれない。そんなわけで、もう一度行って自分自身の記録の追体験をすることにより、再確認をしたい。

おそらく、最初のときには気付かなかった発見などもあろう。あるいは、別な見方をすると異なった記録となってしまう箇所もあるかもしれない。

何回か繰り返すことによって、知識も深まり、興味も一段と増す場合が多い。そんな意味で、今までに行ったすべての場所について、もう一度できるかぎり回ってみたいと考えている。そんなことも、プチさん(プティ散策)をする大きな楽しみの一つであろう。
「罪」という字は、何となく骸骨に似る。


「罪」という字は、身体から肉などをすべて取り除いて、ついに骨だけの姿になった姿。あなたは、そう思いませんか? つまり、骸骨の形が罪なのです。

いっぽう「メメントモリ」や『往生要集』なども、思い出します。メメントモリでは、よく骸骨が出てきます。若い女性に骸骨が寄り添ったり、骸骨とダンスをする光景があります。往生要集では、地獄の責苦により肉が爛(ただ)れて、骸骨になってしまう光景が描かれています。

いずれにしても、生前の罪をどこかで償わなければならないようです。そんな馬鹿なことはないと考えますが、どうも昔から洋の東西を問わずに言われていることが、罪に対して罰が用意されているらしいのです。だから、私は「罪」という字が恐ろしい形に見えるのです。
どうしても思い出せない、なつかしい場所。


どこであったのか? いつ行ったのか? 印象に光景のみが鮮やかに残っているが、それがどこで、いつだったかをどうしても思い出せない。そんな場所がある。ちょっと既視感の感覚の延長のようではあるが、現実に行ったのは事実のはずである。

そのなつかしい感覚は、わからなければわからないほどに増していくみたい。そこで、何とかしてもう一度行ってみたいと思うが、どこであるかがわからないので行けない。

しかし、そこへ行ったからといって、別にどういうことになるのでもないだろう。むろん、金銭的なメリットなどは一切ない。ただ、気持ちが満足をするという欲求によって、何とかしてそこへ行きたいと思っているだけだ。
一連の茶番と嘘で、過ぎた半生。


古希を過ぎて、若いころのことを考えてみれば、慙愧の念にかられる。とくに二十代のころ。思慮が浅かったためであろう。いまそれを云々しても、何とも仕方がないかもしれない。しかし、後になって後悔をするといことは、現在も同じ状態であろう。

古希を過ぎると、間もなく死が待っている。そのときになって、やはり大後悔をするかもしれない。つまり、そのときまでの時点で思慮が足りなかったことを。それは、現時点である。

おそらく、若いころに元気のあまり茶番や嘘で逃れたような方法を恥ずかしく思うとともに、現時点では「死後の生」を真面目に考えていないことに対して、大いに反省をするのではないか。何となく、そんなことが感じられるが、……
最近は、何をするのも面倒になる。


老いたせいであろうか? 最近は、何をするのも面倒になってきた。意欲がないわけではないが、何となく億劫(おっくう)なのである。ふと、こんなことをしても意味があるのだろうかなどと考えてしまう。それが、億劫になる原因かもしれない。

若いころは、精力的に仕事を次々と進めてきた。しかし、最近になって、その意味を考えてしまう。今まで独りよがりが、多かったからである。そして、その結果までを考えてしまうと、何となく意味がないような気がしてしまうのである。

そんな心の変化が、何かをするとき面倒になった原因かもしれない。そして、その情熱を失ってしまったのではないか。つまり、心理的な意味での気力を失ってしまったのかもしれない。困ったことである。それでも、毎日はのどかで結構楽しいのではあるが、……
敵・味方、争うことは愚かなきわみ。


人間同士が敵・味方になって争うほど、愚かなことはない。そうならないようにするほうがよいだろうが、なかなかそうもいかない。なぜならば、利害関係が対立するからである。

それでは、利害関係を対立させないようにすればよい。国家間の問題などはさておき、私はいま自分のことを考える。いったい誰と利害関係が対立するのだろうか。

その相手となるだろう人と付き合わないのがよい。『徒然草』第七十五段に「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。紛るゝ方なく、唯一人あるのみこそよけれ。世に從へば、心外(ほか)の塵にうばはれて惑ひ易く、人に交はれば、言葉よそのききに隨ひて、さながら心にあらず。人に戲れ、物に爭ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。そのこと定れることなし。分別妄(みだ)りに起りて、得失やむ時なし。惑(まど)ひの上に醉へり、醉(よい)の中に夢をなす。走りていそがはしく、ほれて忘れたること、人皆かくのごとし。」とある。私も、そう思う。
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