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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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車椅子、何としてでもなりたくはなし。


最近になって足が萎(な)えてきたみたい。何となく歩くと痛みを生じるときがある。そして、しばらくは痛みで歩けなくなってしまう。もしかしたら、このまま歩けなくなってしまうのではないかと心配だ。

車椅子を自分の手でこいで、進めている人。電動のものをすいすいと走らせている人もいる。すごいと思う。しかし、ほとんどの人の場合は、誰かに押してもらっている。

私は杖や車椅子のことなど、考えたことはなかった。それが足の痛みを感じ始めたころから、何となく心配の種になってしまった。なぜならば、立っているだけでも膝に激痛を感じることが増えたからである。体重が、多すぎるのかもしれない。しかし、むしろ膝の軟骨が減りすぎてしまったことが、大きな原因であるように思う。
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注意して、車椅子にはならないように!


車椅子の生活を見ていると、ずいぶん不便だと思う。歩けなくなって車椅子に乗るのだが、脳血栓などの循環器障害によっても歩けなくなることが多い。

自分で漕いだり、電動式のものに乗っている人もいる。すいすいと動き回る人もいるので、いちがいには不自由だと言えないかもしれない。しかし、ほとんどの人は誰かに押してもらっている。中には、目をつむってただじっとしているだけの人も見受ける。

私は何としてでも、車椅子にはなりたくない。しからば、どうすればよいのだろうか。今のところ、私は食生活に注意して健康を保持し、生活習慣を改めて問題がないようにする。そして、身体の衰えを防止するようにしている。何かよい対策があれば、教えていただきたい。
したいこと次々ありて、日々忙しい。


すでに古希を過ぎて、残る人生もあまりないだろう。そんな時期になって、したいことが次々と出てくる。正直のところ、もはや気力や体力が、かなり喪失した。したがって、かつてのように精力的に仕上げていくことができない。

仕方のないことであると言ってしまえば、それまでであろう。日々忙しいのは事実ではあるがよく考えてみると、あまり必要でないことをしているような気もする。私の仕事には、後継者など必要ないかもしれない。

しかし、「小説の書き方」や「絵の描き方」、そして「作曲の仕方」など、それなりに理解した。そして、誰でもある程度までならばできることがわかった。そのようなことは、いちおうメモにしてある。しかし、今のところ確かめてくれる人は誰もいない。そんな事情の中で、自分が自分のために何かを新たにするというのは、あまり意味のないことかもしれない。
隠遁の身に、なお残るうとましさあり。


世の中には、うとましいことが多い。うとましいは「疎ましい」と書いて、動詞の「疎(うと)む」を形容詞とした言葉。意味は、「いやな感じがすることを避けたい」。さらに、「気味が悪い。不気味」などという意味もある。

隠遁(いんとん)は、いわゆる俗世間を逃れ、隠れて住むこと。しかし、私の場合は、奥深い山中や辺鄙な田舎でなく、駅前にあるマンションの一室である。したがって「遁世(とんせい)」ではあろうが、「庵を結び隠遁をした」などという大げさなものではない。

つまり、付き合いを減らして、対人関係の煩わしさを避けようとしたのである。疎ましさは生きている限り、捨てきれないのかもしれない。それどころか、死んでも意識が残るのではないかと、私は恐れる。
面倒なことは、なるべく避けていきたし。


最近になって、何となく面倒なことをすべて忌諱(きき)したくなった。老いてきたからかもしれないが、もしかしたら人生観の変化によるものかもしれない。何もかも、いっさい煩わしく、したくないように思うことがある。

面倒なことの多くは、人とのかかわりによって生じるようだ。そうかと言って、現代社会で人とかかわりをもたないでは生きていけない。そこで、どうしても必要でない限り、自分からかかわりをもつことを避けるようになる。

そして、最小限のかかわりで日々の生活を送るようにする。ちょっと隠遁者のようであるが、そのほうが心が安らかである。あまり積極的に自分からはしないが、求められたら考えや方法を相手に説明したりはする。
寂しさに耐えて、孤独をあえて選びぬ。


西行ではないが、何となく世間がうとましく、自分自身の置き場所がないように思える。そこで、隠遁というか独自の空間を作るようになった。したがって、あまり人とは付き合わない。求められたら出向くが、自分からはよほどのことがない限り、人とは会わない。

そんなわけで「人間嫌い」ほどではないが、交際や付き合いをしなくなってしまった。その代わり、一人で出かける。いきおい、その場所も賑やかなところや観光地などを避けて、あまり人が行かないような場所になる。

私は松などの自然の植物に語りかけるほどは寂しくないが、それでも何となく孤独感を生じる。何もわかってくれない妻がまだ生きているが、それも孤独を紛らわせる原因にはならない。もしかして妻が死んだら、さらに孤独を感じるのかもしれないが、……。
隠遁の身の寂しさも、楽しからずや。


「寂しさ」が「楽しい」とは、いったいどういうことであろうか。私は、西行のことを思い出す。『新古今和歌集』巻六冬歌にある
<さびしさに たへたる人の またもあれな 庵(いおり)並べむ冬の山里>
である。

その意味は、「私(西行)と同様に、このような寂しさに耐えて暮らしている人がいればいいんだが。そうしたら、この山里に庵(いおり)を並べて住めるんだがなぁ。」

すべてを捨てて出家をしたわけであるが、自然の寂しさの中にあって、ふと人が恋しくなった西行の心の奥底が何となく感じられる。しかし私は、逆に開き直って、そのような状態が楽しいのではないかと思うのである。
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