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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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死ぬまでに構築したい、知的空間。


身の回りのものを元気なうちに整理・整頓しておきたい。あまり多くのものがあると、結局は何も満足にできないであろう。したがって、自分自身の意思で可能なうちに、何とかすっきりさせておきたい。面倒くさいから何もしない……それは、もっともダメなことだと思う。

知的空間などと言っても、そんなに高度なことではない。ここでは、単に自分自身の考えをまとめておく次元のことを言う。それは、例えば日々の生活の基準や考え方などについてである。

さらに、つきつめて言えば、生きている間のことはもちろん、死後の空間でも安心立命ができるようにしておきたい。それは、単に心がけだけのことであるかもしれないが、それであっても私はかまわない。
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死ぬ前に記憶の整理すべきでないか?


自分が死ぬということについての考え方は、各自てんでんばらばらであろう。なぜならば、死んだ後の科学的データがないので、確証が得られないままに思い違いをするからである。また、スエーデンボルグやシュタイナーの書いたことなどを認めようとしないから、死後の事実について考えも及ばない。

記憶は人間の脳に宿ると考えられているが、実際にはどうであろうか。脳が焼かれてしまって存在をしなくなれば、すべてが終わるのであろうか。そんな単純なことではないと、私は考える。

なぜならば、もしも私たちが私たちの科学の及ばない次元に置かれているとしたら、見えない部分はわからないのである。用心のために、何となく意思や思考をまとめておく必要がありそうだ。
向うから見えるが、こちらからは見えない!


これは、いったい何を意味することだろうかと思われるかもしれない。実は、私の「死後の世界」の考え方である。

実際には、死後の世界などというものがあるとは思っていない。また、ないとも言い切らない。私が考えているのは、現実に生きている空間と死んだ空間とが繋がっているという仮説。つまり同じ空間にあるのだが、一方からは他方が見えるときと、脳の作用で見えないときがあるのだ。そんな作用は、現実にも多い。鏡やダイオードの特性も似ているが、体内の浸透圧なども非可逆である。いわゆる一方通行しかできない。

身体がなくなった状態では、どちらも見えるらしい。丹波哲郎氏は、人間界にいるうちに大いに勉強をしておくと、死後もそれらの知識が役に立つと言っているようだ。
空虚なる中にただよう死後の空間。


まだ死んだ体験がないので、はっきりしたことはわからない。しかし、死後の空間には、いわゆる時間の概念がないような気がする。

ふつう、「時空」といって時間と空間の中に私たちは存在するという。しかし、空間はともかく時間は概念でしかない。動かないものに時間はないだろうし、ニュートン時間のほかにベルグソン時間という考え方がある。

「死後の世界」などというのが実際にあるわけではなく、そうかと言って、ないわけでもない。もともと、死後の世界などという概念は存在しないのである。確かに、誰にも死はあるだろう。そして、死体は焼かれて存在しなくなるのがふつう。しかし、それですべてが失われたというわけではないだろう。生や死で人生を区切ろうとするのは、脳のもたらす幻影でしかすぎない。
現実に死後の問題、どう考える?


やがて死ぬことは明白、それで迷う。諦めきれないからである。源信の『往生要集』にあることなどは、とても信じられない。またマルクス=アウレリウスの書いているように、オリーブの実が感謝をして大地に落ちるような気持ちには、なかなかなれない。

プラトンでさえ死後の世界を証明できなかったのであるから、私にわからないのは当然。ただ、過去の哲人が考えても、合理的な結論が出なかったことは何となく事実のようである。

空海の死死死死で、暗いのも恐ろしい。そこで、自分なりに考えて覚悟をしておく必要があるのではないか。それとも源信のように多くの文献を読破して、あらかじめ予備知識を備えておけばよいのだろうか。
束脩(そくしゅう)をしない非礼を妻から指摘。


束脩(そくしゅう)とは、束ねた干し肉のことである。それは、古く中国で、師に入門するときの贈り物として用いた。そのことから、入門をするときや教えを乞うときに持参する謝礼を意味するようになった。

人生において、師となる人は少ない。たまたま市民ロビーで知合いになった渡邊師は、仏教と健康に関するオーソリティである。そんな経緯(いきさつ)で、いろいろ教えていただくことになった。その後、高幡不動尊の護摩を焚く前の説教に参加をした妻は、渡邊師の説法を聞いて、束脩は済んでいるのかと言った。まだだと言ったら、非礼であろうと詰(なじ)られた。

吉田松陰は、「やたら師になるな」と言ったそうだ。もしかしたら、「誰かを師とするな」だったかもしれない。私は、渡邊師とご縁があったことをうれしく思う。
師の知識、汲めども尽きぬ甘露に似たり。


師とは、渡邊師(渡邊先生)のことである。お話には含蓄があり、教えられることが多い。ミスドでドーナットをほうばりながら、ブレンドコーヒーをすする。そんな態度で、お話を聞ける私は幸いである。

かんろ(甘露)とは、もともと中国古来の伝説で、天子が仁政を行うと、天が降らすという甘い露のこと。それが、サンスクリット語の「amta」の訳となって、「不死天酒」の意になり、さらに転じて仏教の教えや悟りにも例えられるようになった。

また、煎茶の上等なものを言ったり、甘露煮などと使うようになった。つまり、非常においしいことを言ったり、甘くて美味なことを指す一般的な言葉になってしまった。渡邊師のお話を聞いていると、仏教の説話なども出てきて、私はいつまでも興味が尽きない。
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