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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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人間のなすこと、すべて意味があるのか?


私たち人間のなすことには、すべて意味があるのだろうか。『伝道の書』ではないが、何となく空しく、愚かに思えることがある。「すべてに意味がある」などというよりか、むしろ「すべてが愚かである」と言いたい現状ではないか。

確かに、現実には意味があって優れたことが多くあろう。現代社会が豊かなのも、科学技術の発達した恩恵である。それを支える科学者たちの努力には、大いに感謝をしたい。しかし、社会組織の中で行われたことは、何となく全体的にアンバランスのことが多い。

したがって、高度な技術のある反面で、かなりの愚かさも目立つ。いったい、人類は全体として何をしようとしているのだろうか。そんなことさえ疑問に思うことがある。私だけであろうか。
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Butubutuと言い始めたら、注意が必要!


今までに、
「ぶつぶつと言い始めたら、注意が必要!」
「ブツブツと言い始めたら、注意が必要!」
というのがあったから、今回は「Butubutu」にしてみた。

現代社会は化学薬品を多く食べる。というか、食べさせられているのである。食中毒を嫌ったり、生物(なまもの)の傷みを避けるためである。その結果、化学薬品症候群になることは必然。

現代は、過去の人類史上にないほどの規模で、雄大な生体実験をしている時代である。とくに、食品添加物などの化学薬品が脳に与える影響などは、マウスの実験ではよくわからないので、全国民による生態実験をしているようだ。その結果、「Butubutu」が今後ますます多くなるのではないか。
人間の心の所在、いずこにあるか?


人間の心(こころ)は、どこにあるのだろうか。また、そもそも心とは何であろうか。そして、脳と心の関係はどうなっているのだろうか。

『死者の書』を読むと、古代エジプトでは「心臓に魂が宿る」と考えていたようだ。だから、心臓を天秤にかけて、生前の罪の重さを量ったと言う。

しかし、実際にはどうなのであろうか。水でさえ、温度によって「氷」や「蒸気」などに変わる。そして、「見える状態」や「見えない状態」に変化をする。「死後空間」とは、どうなっているのだろうか。心が、「空間に漂っている状態」とか「空間に溶け込んでいる現象」などと言ったら、おそらく疑う人が多いだろう。現代科学では、割り切れない一端があるように、私には思えてならない。
恥と罪、重ねるうちに老いが現実。


恥をかいたり、罪を犯しているうちに、何となく老いてしまった。何ともみっともないことをよくも続けてきたことである。また、罪も平気でやってきた。ここで罪と言っても、逮捕されるようなことや裁判にかけられるようなことではない。しかし、心に後ろめたい気持ちの罪を私が日々続けているのは現実。

考えてみると、自分自身の人格がなっていないことが原因かもしれない。怒りや貪(むさぼ)りが、罪につながるのである。

大食いなども、罪の一つかもしれない。「七つの大罪」というボスの絵にもあるからだ。昼に吉野家で牛丼を食べてビールを飲み、さらにミスタードーナツでブレンドコーヒーを二杯、ドーナット二個を平らげるときなどは至福でもある。しかし、老いを認識しながら罪の意識も免れないのはなぜだろうか?
何らかの用を作って外出をする。


部屋にこもりっきりなのはダメ。なぜならば、運動不足になってしまうからだ。刺激のない日々を過ごすと脳の活性化ができないから、いきおいボケ症状を誘発する。また、足腰も使わないと次第に歩けなくなってしまう。

そうかと言って、もはや長距離を歩くことはできない。私の場合、せいぜい数キロメートル。そこで、バスなどを利用したプチさん(プティ散策)をプランすることにした。

今までに行った区域で、気付かなかったり、スケジュール的にいけなかったりした場所を見直す。地図を見ながら、行ったところを改めて調べるのである。すると、思いもよらなかったところに、まだ行っていなかったりする。何らかの用とは、外出をするきっかけであればそれでよい。
すっかりと忘れて、同じことをまたする。


同じことをしたって、いいじゃないか。初めから、何もしないよりは。確かに、そうかもしれない。しかし、度忘れが激しく、耄碌(もうろく)が始まりかかっているようにも思えて、ちょっと心配である。

久々に多摩センターへ行こうとして、愛宕経由のバスに乗った。すると、広告アナウンスがあった。多摩大観音である。私は、墓地分譲のために最近作られたものだと知っていた。そこで写真を撮って帰ると、一年前にも同じものを撮影していた。

亡者が、地獄で言い訳をする。「私は無知のために罪を犯しました。何も知らなかったことなので、どうぞお許しください。」 すると、閻魔大王が激しく言う。「お前は、前世でも同じことを言ったじゃないか!」 記憶は、事実の一部しか残らないらしい。
パソコンは、どうしても眼を酷使、疲れる。


YouTubeなどで動画を見たり、音楽を聞いているときはよい。しかし、ホームページビルダーで編集をしたり、メールを書いたりするときは、目にかなりの負担があるのだろう。疲れてしまうのである。

画像を編集してセーブするときも、細心の注意が必要である。ピリオド(.)は、この画面では横に二つであるようだけれど、実際にはピクセル一つである。ものすごく小さい。いきおい、目を細めて熟視することによって、確認をしなければならない。目の焦点を合わせる筋肉を動かすのは、かなりエネルギーが必要らしい。

そんなため、何となくパソコンから遠ざかってしまう。とくに、老いてくると目が悪くなって、また注意力も散漫になってしまう。それでも「生きている証明」になるので、差し引いてもありがたいと思う。
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