rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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どんよりと曇った日には、部屋で本読む。
冬の空がどんよりと曇っている日などは、大好きな散歩ができない。青空が出ていないとデジカメの写真がうまく写らないし、また雨が降ってきたりすると風邪をひいてしまう。
そんなわけで曇った日には、仕方なくどこにも行かず部屋にいる。じっとしているのではなく、本を読んだり、地図を見たりするのだ。また、パソコンをすることも多い。
書物は前に読んだものを書棚から取り出して、読み直すことが多い。また、地図も前に行ったところのものを眺めている。パソコンが動いているときは、グーグルの地図やヤフーのものを眺める。倍率を変えてみたり、航空写真にしてみたり、またどこまでもドラッグをして見て行ったり、いつまでも飽きない。曇った日にも、それなりの楽しみがある。
冬の空がどんよりと曇っている日などは、大好きな散歩ができない。青空が出ていないとデジカメの写真がうまく写らないし、また雨が降ってきたりすると風邪をひいてしまう。
そんなわけで曇った日には、仕方なくどこにも行かず部屋にいる。じっとしているのではなく、本を読んだり、地図を見たりするのだ。また、パソコンをすることも多い。
書物は前に読んだものを書棚から取り出して、読み直すことが多い。また、地図も前に行ったところのものを眺めている。パソコンが動いているときは、グーグルの地図やヤフーのものを眺める。倍率を変えてみたり、航空写真にしてみたり、またどこまでもドラッグをして見て行ったり、いつまでも飽きない。曇った日にも、それなりの楽しみがある。
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ときどきは、、ピカッと光る「つぶやき」もある。
Twitterを見ていると、流行や話題がわかる。しかし、多くは私に関係のない記事。おそらく、その投稿者と興味や日々の考え方などが違うからであろう。しかし、ときにはピカッと光るようなつぶやきもある。
そんなときは、うれしくなって投稿者のあらましなどまで見てしまう。そして、「なるほど」と思うことが多い。その記事は、さっそく「お気に入り」に入れる。忘れてしまわないためである。そして考えた結果、時には返信や問い合わせなどをする。
そして、後になっても何回か見る。いろいろなことを考えさせられたり、新たな発見などがあって面白い。そんな楽しみが、Twitterの中にもある。パソコンは私の知的空間を広げてくれるのでありがたい。
Twitterを見ていると、流行や話題がわかる。しかし、多くは私に関係のない記事。おそらく、その投稿者と興味や日々の考え方などが違うからであろう。しかし、ときにはピカッと光るようなつぶやきもある。
そんなときは、うれしくなって投稿者のあらましなどまで見てしまう。そして、「なるほど」と思うことが多い。その記事は、さっそく「お気に入り」に入れる。忘れてしまわないためである。そして考えた結果、時には返信や問い合わせなどをする。
そして、後になっても何回か見る。いろいろなことを考えさせられたり、新たな発見などがあって面白い。そんな楽しみが、Twitterの中にもある。パソコンは私の知的空間を広げてくれるのでありがたい。
尿療法、さくらももこと森繁久弥。
「尿療法」は「尿飲療法」とも言って、簡単に説明するとオシッコを飲む療法である。そして、それがすべての病気の予防になると言う。そんなことを説いている人がいる。私は、飲むのではなく舐(な)めるので「ラップリン」と言うが、中尾良一先生や高田麻りもさん以外にも多くのファンがいる。例えば、さくらももこと森繁久弥。
さくらももこは、本名三浦美紀、1965年生まれの漫画家。自分の少女時代をモデルとした代表作『ちびまる子ちゃん』で有名。エッセイストとしても活躍し、確か『もものかんづめ』に書いてあったと思う。
森繁久弥(1913―2009)は、早稲田大学在学中から演劇活動。中退後は、東宝劇団、古川緑波(ろっぱ)一座などを経て、新京放送局。映画は、『夫婦善哉(めおとぜんざい)』など。舞台は、『屋根の上のヴァイオリン弾き』など。アナウンサの逸見さんがガンで亡くなる前に、その療法を薦めたそうだが、彼はインテリのために従わなかったという。
「尿療法」は「尿飲療法」とも言って、簡単に説明するとオシッコを飲む療法である。そして、それがすべての病気の予防になると言う。そんなことを説いている人がいる。私は、飲むのではなく舐(な)めるので「ラップリン」と言うが、中尾良一先生や高田麻りもさん以外にも多くのファンがいる。例えば、さくらももこと森繁久弥。
さくらももこは、本名三浦美紀、1965年生まれの漫画家。自分の少女時代をモデルとした代表作『ちびまる子ちゃん』で有名。エッセイストとしても活躍し、確か『もものかんづめ』に書いてあったと思う。
森繁久弥(1913―2009)は、早稲田大学在学中から演劇活動。中退後は、東宝劇団、古川緑波(ろっぱ)一座などを経て、新京放送局。映画は、『夫婦善哉(めおとぜんざい)』など。舞台は、『屋根の上のヴァイオリン弾き』など。アナウンサの逸見さんがガンで亡くなる前に、その療法を薦めたそうだが、彼はインテリのために従わなかったという。
エビ・カニやウニ・イクラなど、食べ過ぎてはダメ。
いずれも珍味でおいしいが、プリン体が多く含まれている。そして、食べ過ぎると身体に故障を起こす。ひどい場合は、死に至るようである。
エビ(海老)やカニ(蟹)は、高価であるから多くは食べられない。また、ウニ(雲丹)やイクラなども、どちらかといえば高級料理。したがって、料亭などで接待に出すのではないか。
同席したことがないから、はっきりはわからないが、田中さんや小渕さんは、それでやられたのではないかと思う。総理大臣ともなると、そのようなものを接待のときに出されるに違いない。日々少しずつであっても、次第に体内に影響をもたらすのであろう。おいしいと言って食べているうちに、どんどん死に近づいてしまう。
いずれも珍味でおいしいが、プリン体が多く含まれている。そして、食べ過ぎると身体に故障を起こす。ひどい場合は、死に至るようである。
エビ(海老)やカニ(蟹)は、高価であるから多くは食べられない。また、ウニ(雲丹)やイクラなども、どちらかといえば高級料理。したがって、料亭などで接待に出すのではないか。
同席したことがないから、はっきりはわからないが、田中さんや小渕さんは、それでやられたのではないかと思う。総理大臣ともなると、そのようなものを接待のときに出されるに違いない。日々少しずつであっても、次第に体内に影響をもたらすのであろう。おいしいと言って食べているうちに、どんどん死に近づいてしまう。
「なるほど」と「そのとおりだ」と「的外れ」あり。
メールで社会事情の意見が来たり、Twitterなどで記事を読んでいると、「なるほど」と思うことがある。また、「そのとおりだ」とか「まったくだ」などと、賛同をする。「まったく違う」ことや「的外れ」の意見は、めったにない。そして、それぞれの人が、真剣に社会の成り行きを見ているということがわかる。
私は政治や宗教に疎(うと)いので、何となく「おかしい」と感じることがあっても、鋭いメスを入れて意見をまとめることができない。そこで、他人の意見を参考にしたり、そこから学んだりするのだ。
とくに、たまさんがリポートをした社会情勢、つまり国際的に日本の置かれた状態などは、大いに学ぶべきものがある。そんなわけで、いつも勉強をさせてもらう。そしていつまでも、たまさんがお元気であられることを祈っている。
メールで社会事情の意見が来たり、Twitterなどで記事を読んでいると、「なるほど」と思うことがある。また、「そのとおりだ」とか「まったくだ」などと、賛同をする。「まったく違う」ことや「的外れ」の意見は、めったにない。そして、それぞれの人が、真剣に社会の成り行きを見ているということがわかる。
私は政治や宗教に疎(うと)いので、何となく「おかしい」と感じることがあっても、鋭いメスを入れて意見をまとめることができない。そこで、他人の意見を参考にしたり、そこから学んだりするのだ。
とくに、たまさんがリポートをした社会情勢、つまり国際的に日本の置かれた状態などは、大いに学ぶべきものがある。そんなわけで、いつも勉強をさせてもらう。そしていつまでも、たまさんがお元気であられることを祈っている。
寺々に魚籃観音、拝顔に行く。
魚籃観音がおられることを知ったら、私は遠い寺にでもお目にかかりに行く。しかし、遠いと言ってもせいぜい東京都内。地方にも行きたいが、若いころのようには体力が続かないからである。
魚籃観音は、三十三観音の中にもましますご一体。やはり、その中の馬郎婦(ばろうふ)観音と同じだと言う人もいる。いずれにしても、女性のお姿をしている観音さまである。
その魚籃観音について、「陝右(せんゆう)の人たち」というモディファイをしてみた。時代を現代に移し、主人公を魚売りではなく、花売りにした。さらに、経でなく花の名前の暗誦にした。その作品はあまり秀作ではないが、それでも自分自身の安心立命にいくらか役立っている。そんなことから、魚籃観音に関心をもつようになったのである。
魚籃観音がおられることを知ったら、私は遠い寺にでもお目にかかりに行く。しかし、遠いと言ってもせいぜい東京都内。地方にも行きたいが、若いころのようには体力が続かないからである。
魚籃観音は、三十三観音の中にもましますご一体。やはり、その中の馬郎婦(ばろうふ)観音と同じだと言う人もいる。いずれにしても、女性のお姿をしている観音さまである。
その魚籃観音について、「陝右(せんゆう)の人たち」というモディファイをしてみた。時代を現代に移し、主人公を魚売りではなく、花売りにした。さらに、経でなく花の名前の暗誦にした。その作品はあまり秀作ではないが、それでも自分自身の安心立命にいくらか役立っている。そんなことから、魚籃観音に関心をもつようになったのである。
生きる意味、生かされる意味、わからないまま。
若いころは、自分が「生きる」ということなどは考えなかった。そして「生きている」という意識もあまりなかった。ただ、日々を何とかがんばって切り抜けてきたように思う。
しかし、還暦を過ぎたころから「生きている」という実感よりも、むしろ「生かされている」のではないかと考えるようになった。しかし、その「生かされている」本当の意味などは、いまだにわからないままである。
つまり、自分自身が「生きている」ことは事実であるが、その意味がわかっていない。また、「生かされている」意味などもわからない。いったい、誰が自分を生かしているのかがわからない。でも、何者かによって生かされていることは、うすうす本能的にわかってきたところである。
若いころは、自分が「生きる」ということなどは考えなかった。そして「生きている」という意識もあまりなかった。ただ、日々を何とかがんばって切り抜けてきたように思う。
しかし、還暦を過ぎたころから「生きている」という実感よりも、むしろ「生かされている」のではないかと考えるようになった。しかし、その「生かされている」本当の意味などは、いまだにわからないままである。
つまり、自分自身が「生きている」ことは事実であるが、その意味がわかっていない。また、「生かされている」意味などもわからない。いったい、誰が自分を生かしているのかがわからない。でも、何者かによって生かされていることは、うすうす本能的にわかってきたところである。