rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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老いは病(びょう)、病(やま)いは死への準備であるか?
たいがいの人は、老いてくると病気になりがち。そして病気が続くと、やがて死。仕方のないことである。健康に留意をしても身体が衰えていくのは、どうしようもない。
老いてくると病気がちになって、たいがいは病院や医者に通う。そして、薬の常用を始めるようになってしまう。そうなると、それは一生の間ずっと続く。つまり、死ぬまでである。
私は、なるべく薬は使わないようにしたいと思っている。せいぜいサプリメントがよいところ。長期間で患った糖尿病とか、血圧異常などは、やはり長期間かかっても食事や生活習慣の改善によって治すのが常道ではないだろうか。また、病を死の準備と考えて、生活に注意をしたい。
たいがいの人は、老いてくると病気になりがち。そして病気が続くと、やがて死。仕方のないことである。健康に留意をしても身体が衰えていくのは、どうしようもない。
老いてくると病気がちになって、たいがいは病院や医者に通う。そして、薬の常用を始めるようになってしまう。そうなると、それは一生の間ずっと続く。つまり、死ぬまでである。
私は、なるべく薬は使わないようにしたいと思っている。せいぜいサプリメントがよいところ。長期間で患った糖尿病とか、血圧異常などは、やはり長期間かかっても食事や生活習慣の改善によって治すのが常道ではないだろうか。また、病を死の準備と考えて、生活に注意をしたい。
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なつかしい、いつかどこかで見たことがある。
何かの機会に、ふとなつかしい思いがする。そして、すでに「いつか」「どこか」で、その体験をしたような気がする。既視感やデジャビュと言われる体験とも似ている。
しかし、「いつ」「どこ」などの明瞭な記憶がない。何となく、そんな気がするという程度であって、詳細を思い出せないのである。そんなことは、いろいろな場合に起こる。
景色を見たとき、絵や彫刻などを見たとき、書物を読んだとき、テレビなどのドラマを見たとき、知人と話をしているとき、そして自分自身が何かを考えているとき、その他いろいろな場合に。おそらく、いつも自分は同じようなことをしていて、同じようなパターンの体験をしているからかもしれない。
何かの機会に、ふとなつかしい思いがする。そして、すでに「いつか」「どこか」で、その体験をしたような気がする。既視感やデジャビュと言われる体験とも似ている。
しかし、「いつ」「どこ」などの明瞭な記憶がない。何となく、そんな気がするという程度であって、詳細を思い出せないのである。そんなことは、いろいろな場合に起こる。
景色を見たとき、絵や彫刻などを見たとき、書物を読んだとき、テレビなどのドラマを見たとき、知人と話をしているとき、そして自分自身が何かを考えているとき、その他いろいろな場合に。おそらく、いつも自分は同じようなことをしていて、同じようなパターンの体験をしているからかもしれない。
バートンの『ちいさいおうち』、心に残る。
アメリカの絵本作家・画家・デザイナーのバージニア=リー=バートンが描いた絵本である。子どもに買い与えたのが五十年ほど前、他愛のない内容ではあるが、なぜか今でも覚えている。
静かな田舎の土地に建てられた小さなお家が、次第に都市化をしていく中で過ごし、やがて最後は車に乗せられて引越しをするというストーリ。そのお家の窓が、何となく顔に見えて印象深かった。
私の持っている版は、数字以外の文章はほとんどひらがな。絵と文章が、半々くらい。漢字は、「月」「木」「小川」「子ども」「日」「大きく」くらいです。それでも、とても豊かな内容なので、いつまでも心に残ることでしょう。
アメリカの絵本作家・画家・デザイナーのバージニア=リー=バートンが描いた絵本である。子どもに買い与えたのが五十年ほど前、他愛のない内容ではあるが、なぜか今でも覚えている。
静かな田舎の土地に建てられた小さなお家が、次第に都市化をしていく中で過ごし、やがて最後は車に乗せられて引越しをするというストーリ。そのお家の窓が、何となく顔に見えて印象深かった。
私の持っている版は、数字以外の文章はほとんどひらがな。絵と文章が、半々くらい。漢字は、「月」「木」「小川」「子ども」「日」「大きく」くらいです。それでも、とても豊かな内容なので、いつまでも心に残ることでしょう。
防腐剤ばかり食べたら身体(からだ)に異変。
近年になって、食中毒が少なくなったようだ。それは、食品に防腐剤を多量に添加するからではないだろうか。私のよく行く食堂には、紅しょうがが置いてあって、いつ見ても色鮮やかでおいしそうに見える。
かつて、自分で紅しょうがを作ったことがある。かなり塩分を多くしても、すぐ白くかびてしまった。腐ったり、カビが生えるのを嫌う利用者が多いために、防腐剤を多く混入するのではないだろうか。しかし、化学薬品が体内に蓄積すると、身体に異変をきたすのは必然。
例えば、饅頭である。買ってきて五日ほどテーブルに置いておく。すると、カビが生える。それを捨てて、もう一度その店で買って、その日のうちに食べる。もしも、一週間しても常温でカビが生えないのであれば、私は捨ててしまう。そして、それからその店では決して買わないようにする。
近年になって、食中毒が少なくなったようだ。それは、食品に防腐剤を多量に添加するからではないだろうか。私のよく行く食堂には、紅しょうがが置いてあって、いつ見ても色鮮やかでおいしそうに見える。
かつて、自分で紅しょうがを作ったことがある。かなり塩分を多くしても、すぐ白くかびてしまった。腐ったり、カビが生えるのを嫌う利用者が多いために、防腐剤を多く混入するのではないだろうか。しかし、化学薬品が体内に蓄積すると、身体に異変をきたすのは必然。
例えば、饅頭である。買ってきて五日ほどテーブルに置いておく。すると、カビが生える。それを捨てて、もう一度その店で買って、その日のうちに食べる。もしも、一週間しても常温でカビが生えないのであれば、私は捨ててしまう。そして、それからその店では決して買わないようにする。
「金持ち」や「有名」などは、愚かなものか?
私のもっている『イソップ寓話集』(山本光雄訳)に、「狐と葡萄の房」として、
<或る飢えた狐が葡萄棚から葡萄の下がっているのを見た時に、それを手に入れようと思いましたが、できませんでした。そこを立ち去りながらひとり言を言いました。「あれはまだ熟(う)れていない。」……>
確かに、その通りだとも思う。でも、私は何となく「金持ち」や「有名」などは愚かしく、空しいものと思う。秒単位で仕事をこなすために自家用ジェット機で、世界中をかけまわっている事業家よりも、年金生活者の私はもっと幸福だと思う。
ハワード=ヒューズの伝記を読んだり、ソロモン風のコヘレットの書を読むと、いったい彼らは何のために何をしたかを不思議に思ったりもする。負け惜しみや捨て台詞(ぜりふ)だろうか。
私のもっている『イソップ寓話集』(山本光雄訳)に、「狐と葡萄の房」として、
<或る飢えた狐が葡萄棚から葡萄の下がっているのを見た時に、それを手に入れようと思いましたが、できませんでした。そこを立ち去りながらひとり言を言いました。「あれはまだ熟(う)れていない。」……>
確かに、その通りだとも思う。でも、私は何となく「金持ち」や「有名」などは愚かしく、空しいものと思う。秒単位で仕事をこなすために自家用ジェット機で、世界中をかけまわっている事業家よりも、年金生活者の私はもっと幸福だと思う。
ハワード=ヒューズの伝記を読んだり、ソロモン風のコヘレットの書を読むと、いったい彼らは何のために何をしたかを不思議に思ったりもする。負け惜しみや捨て台詞(ぜりふ)だろうか。
不可解なもの多くあり、現代社会。
科学技術が発達した現代社会と言っても、まだまだ不可解な物体や現象が多くあるみたい。むろん、そのことに注意しなくても日々の生活ができるから、関心がない人たちは不可解に対して喧(かまびす)しくない。
例えば、UFOや宇宙人の存在・人類文明の異常なほどの急な発達、人間の脳に関する未解決な問題など、私には不可解だらけである。そして、何となく私とは異質な人たちが、別次元にいるように思えてならない。
それは、ちょうど家畜が飼われているようなもの。仮に私が一匹のニワトリとすると、何のために日々飼育されているかがわからない。また、いったい何をすればよいのかも教えられていない。何となく、日々を生きているという感じ。あたかもケンタッキーの養鶏場で、ニワトリがカーネルおじさんの考えていることも知らずに、ただ餌を啄(つい)ばんでいるように。
科学技術が発達した現代社会と言っても、まだまだ不可解な物体や現象が多くあるみたい。むろん、そのことに注意しなくても日々の生活ができるから、関心がない人たちは不可解に対して喧(かまびす)しくない。
例えば、UFOや宇宙人の存在・人類文明の異常なほどの急な発達、人間の脳に関する未解決な問題など、私には不可解だらけである。そして、何となく私とは異質な人たちが、別次元にいるように思えてならない。
それは、ちょうど家畜が飼われているようなもの。仮に私が一匹のニワトリとすると、何のために日々飼育されているかがわからない。また、いったい何をすればよいのかも教えられていない。何となく、日々を生きているという感じ。あたかもケンタッキーの養鶏場で、ニワトリがカーネルおじさんの考えていることも知らずに、ただ餌を啄(つい)ばんでいるように。
結局は、わからずじまい、死後の生など。
いろいろと考えてはみたものの、死後のことなどは結局解らないままに、自分自身が死んでしまうのではないだろうか。もしかしたら、体験をしてはいるが、記憶にないのかもしれない。それは、あたかも転勤先の場所がどこでどんなところであるかを知らずに、迎えが来て飛行機に乗ってしまうようなものだ。
今のところ、まだ現実に体験をしていないからか、とくに「死後の世界」があるとは思えない。また、死ぬということ自体、現実でないように感じる。確かに、心臓や肺が停止して、脳の機能がダメになり、焼かれて灰になるだろう。
しかし、そういう外見上のことではなく、私たちが置かれた次元自体が生死にかかわらず続くのではないか。それを感じないだけで、死を切り離して論じるのは、ドーナットの重心が空間にあるのを知らないのと同じ。
いろいろと考えてはみたものの、死後のことなどは結局解らないままに、自分自身が死んでしまうのではないだろうか。もしかしたら、体験をしてはいるが、記憶にないのかもしれない。それは、あたかも転勤先の場所がどこでどんなところであるかを知らずに、迎えが来て飛行機に乗ってしまうようなものだ。
今のところ、まだ現実に体験をしていないからか、とくに「死後の世界」があるとは思えない。また、死ぬということ自体、現実でないように感じる。確かに、心臓や肺が停止して、脳の機能がダメになり、焼かれて灰になるだろう。
しかし、そういう外見上のことではなく、私たちが置かれた次元自体が生死にかかわらず続くのではないか。それを感じないだけで、死を切り離して論じるのは、ドーナットの重心が空間にあるのを知らないのと同じ。