忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[144]  [145]  [146]  [147]  [148]  [149]  [150]  [151]  [152]  [153]  [154
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

「ようつべ」や「ついたあ」などは、知的空間。


最初のころ、読み方がわからなかった。そして、わからないままに「YouTube」を「ようつべ」、「Twitter」を「ついたあ」として、固有名詞で辞書ツールに単語登録をした。そんなわけで、私はそのまま使っている。

そして、この「ようつべ」も「ついたあ」も、最近では私の「知的空間の一部」になった。いずれもタダ(無料)で、それなりに充足している。筆禍や著作権など注意をすれば、まずは安全。何となく「YouTube」を見たり、「Twitter」を読んでいると勉強になるし、面白い。

情報過多の時代に、情報の氾濫の中で、たれ流しで発信されたデータから、少なくとも共通の話題が選べるので、知的空間の周囲や内容を広げてくれ、老化予防の効果もある。しかし、いずれもブログ形でプロバイダにすべてを預けているから、失われてもよいような配慮が必要である。
PR
勘違いすること多い昔の映画。


かなり昔に見た映画。もう一度見たくなって、YouTubeで探す。たいがいは、アップされていて、見ることができる。しかし、探すのが大変である。

モーツアルトのピアノ協奏曲21番の第二楽章やヴィヴァルディの曲がバックに流れていたスエーデン映画『みじかくも美しく燃え』は、「美しく短く燃える」と覚えていた。文字が異なると、出てこないことが多い。そこで、原名の「Elvira Madigann」とするとたくさん出てくる。ストーリは単純で、おそらく音楽が効果的に印象に残ったのかもしれない。

『かくも長き不在』は「かくも久しき不在」と覚えていて、なかなか出なかった。同じ原作者のフランス映画で、岡田英次が出ていた「ヒロシマ・モナムール」(Hiroshima,mon amour)は、『二十四時間の情事』とすると出た。探すのに一苦労するが、一部ではなく全巻見れるものもある。
いろいろと学ぶことあり、「地獄変相」。


最近になって、中国で描かれた『地獄変相図』というのがある。かなり大掛かりなもので、素晴らしい。源信の「往生要集」をそのまま絵にしたようなもの。見ごたえがあった。YouTubeの第四巻には、<三字経に「養いて教えざるは父の過ちなり」>とあって、幼いころから躾(しつけ)をしないと、将来にダメな人間になって地獄に堕ちると警告。

また、第六巻には<仏さまは、「財施をすれば富を得る。法施をすれば智慧を得る。無施畏をすれば健康長寿を得る」と仰(おっしゃ)った>とある。

そして、最後のほうで<玉皇天帝は孟婆神を幽冥(ゆうめい)の神に任命し、孟婆亭を建立(こんりゅう)させた。そして、生まれ変わろうとするものは、そこで茶を飲まされて、前世のことを忘れてしまう>とあった。私にとっては、なかなか含蓄のある言葉である。
何となく、生簀(いけす)の中に置かれた感じ。


私は「生きている」というよりも、「生かされている」という感じがしてならない。つまり、何か大きなものに観察をされている感じなのである。それはもしかしたら、実験の一部なのかもしれない。生簀の中にいるとは、生殺与奪の力も相手方にあるということ。

つまり、神とでも言ったような存在が、空間と時間の中に、私を閉じ込めたのではないだろうか。鏡で自分の顔を見ても、何となく自分自身ではないように感じるときもある。おそらく、そこに写っているのは観察をされている自分のほうであろう。

また、時間についても奇妙な体験をする。一時間が長く感じたり、短く感じることである。それも、もしかしたら時間を縮小して、実験をされているためかもしれない。ニュートン時間やベルグソン時間を考えてみたら、いずれにしても何かの目的のために生かされているのではないかと、私は思う。
「こんなことして何になる?」、思うことあり。


若いころはすべてが体験になるので、それなりの意味があっと思う。失敗や無駄なことも、後日になって役立つことがあるからであろう。それはいわゆる体験学習の一環と思えばよい。

しかし高齢者になって、さらに古希を過ぎると、それこそ「年寄りの冷や水」の場合がある。「年寄りの冷や水」は「老人が身体に冷水を浴びるような危険な行為」ばかりではない。高齢者にふさわしくない行為や危険な行為、さらには差し出がましい振る舞いをすることなどを戒めている。単に戒めるばかりではなく、そんなことを冷やかしてさえいる言葉のようだ。

「こんなことして何になる?」と、つくづく思うことがある。あまり無理をして、社会に迷惑をかけることのないようにしたい、とも考えているのだが、……。
わからないこと多くあり、それでも作る。


いろいろと考えるのだが、わからないことばかり。それでも、やっているうちに何とかわかってくるから不思議だ。決して諦めずに、あれこれと工夫をする。しかし、深入りをすることが無意味であると考えたら、いさぎよくやめる。

今まで、「ホームページ」「ブログ」「YouTube」「twitter」、そしてその「ボット」と進めてきた。いずれも最初のころは、まったく自信がなかった。なぜならば、私のような年配者にはきわめてわかりにくい仕組みになっているからである。ボットなどは、まったくナウい感覚の表現で、逆に取っ付きにくい。

それでも、そんなことに挑戦をすることが、老化予防の一環としては、非常に好ましいことかもしれない。また、それなりに自分自身の知的空間を広げるわけだから、わからなくても大きな効果があることは事実。何でもやってみる価値があると思う。
季語などは不要、下の句、五でなくて七。


この新句(十九音)のことである。短歌や俳句が難しくて、私には力及ばなかった。そこで、考え出した短詩形。

俳句のような季語はいらない。また、韻なども一切不要。だから、思ったことを思ったままに綴ればよい。また、他人の真似をしてもよい。例えば、明恵上人(みょうえしょうにん)が<あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかやつき>と短歌に歌ったのを知って、自分なりに

あかあかと、あかあかあかと、あかあか夕日!

などと、下の句を七字で収めてもよいだろう。さらに、まったく同じ句が何回もあってよいのだ。そんなわけで、誰でも気楽に作れる。


忍者ブログ [PR]