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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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帰ったら歩いた距離を測ってみよう。


プチさん(プティ散策)から帰ると、歩いたところをグーグルの地図「マイマップ」で見る。縮尺を変えたり、航空写真にしてみたりする。上から見るのは、「鳥瞰図」や「ナスカの絵」のように楽しい。自分が、どこを歩いたかが再確認できるから。ただし、森の中を歩いたときはダメ。

さらに、歩いた道をグーグルの「距離測定ツール」を用いて、地図上でトレースすることによって簡単に歩行距離がわかる。メートルでなくヤードでも測れるが、私はメートルのみ。

わずか3時間くらいのプチさん(プティ散策)ではあるが、4キロメートルくらい歩いている。途中で休んだり、立ち止まって考えたり、何かを見学をしているので、平均時速はものすごく遅いことになる。

プチさん(プティ散策)は、それでいいんだ。

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コツコツとメモや写真を残す楽しみ。


他人が見たら、幼稚で愚かな内容かもしれない。しかし、自分がよければよいのである。評価をされることを目的としているわけではなく、自分自身が「生きている証明」をしようとしているのであるから。

そんなわけで、散歩に出かけるときには、デジカメを持参。そして、何かに興味をもつと、気軽にパチリ。また、いつもメモ用紙を持っている。思いついたことは、直ちにメモる。

デジカメの写真とメモ用紙の内容は、帰ってから整理・編集。ほとんどの写真やメモは、削除をしてそれでおしまい。しかし、ホームページに残したり、プログの記事になったりするものもある。

いずれにしても、「生きている証明」なのである。
何となく、我とわが身をもて余す日々。


精神的にも肉体的にも、何となく物憂いことがある。さらに、面倒くさくなってしまう。やる気がなくなったり、体が重く感じたりする。そして、何をするのも煩わしくなりがち。

「我」は「心」、つまり「気」。「わが身」は「身体」。そして、「気は心」などと言う。
また、「病は気から」とも言うではないか。

気力がなくなると、身体の抵抗力が少なくなって、病気になりがち。そして、最後はアウトになってしまう。知人を見ていると、そんな人が多い。かつて、あれほど精力的であった人が、すっかり静かになってしまった。

少しでも、そうならない工夫が必要であろう。考え方で、かなり結果が異なってくるからだ。

次々と脳裏をよぎることをメモする。


単に、それだけのことである。
それがいったい何になるのか。あえて言えば、いつまでも脳をフレッシュにする技法の一つと考える。つまり、「老化予防」の一つであろう。ボケ防止などとしてもよいかもしれない。

そのメモも、「回想創造法」や「自己福音書」にまで発展させることができる。そうなれば、何とも楽しいことではないか。

次々とイメージを心の中でリンクしていく。心の中というよりも、脳の中かもしれない。そして、その場が「知的空間」となる。自分自身の中に、マクロコスモスを構築する。その宇宙は、次第に膨張をしていくかもしれない。つまり、エントロピーの増大と同じで、際限がないことだ。しかし、それでもいい。
何回も、同じことする楽しみもあり。


同じことを繰り返すと、くどいと感じたり、ともすると飽きがち。しかし反面、その中に再発見があったりして楽しい。

私は、宮本武蔵の

<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。
自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>

という言葉を思い出す。
何事もわかっているようで、考えてみればわからない。そんな中で、「お百度」や「百曼陀羅」のような修行をすることを考えると、まさしく自分自身を見直す瞬間になるのである。
そんなことが、最近になってわかってきた。

何をするにも疎(うと)ましく、老いを感じる。


ここのところ、何となく衰えてきたのだろうか。「老いを感じる」と言ったら、ちょっとオーバーかな。

でも、何かするときに「面倒くさい」とか「億劫(おっくう)だ」などと思ってしまう。そして、何かをしたときにすぐに疲れてしまう。その結果、「疲れた、疲れた」などと言う始末。

何となく老化・退廃の兆(きざ)しである。
よく考えてみれば、還暦をとっくに過ぎて、もはや古希である。だから、当然のことと言えばそれまで。

しかし、何とかして「サムエル・ウルマンの『青春』という詩」のようにありたいとも思う。できることならば、……。

すぐ疲れちゃうので、あまり遠出はできぬ。


古希(数え年の七十歳)の前後から、急速に体力が衰えるという。
そんなわけで、すぐに疲れちゃう。かつてのように、10キロメートル以上も歩く強行軍は、もはやできない。

そこで、近場の散歩。それをプチさん(プティ散策)という。駅を中心として数キロメートルの範囲内。もしも体調を崩しても、周辺には病院があるだろう。また、疲れてから帰ってくるときにも駅から電車にすぐ乗れる。

そんな状態であるから、安心できる。
つまり、交通機関そのものが母船のようなもので、頼りになるのだ。

老いてからも冬山に行ったり、太平洋に乗り出したりする人もいる。しかし、遭難などをすると多大な迷惑がかかるだろう。そんなわけで、私たちのプチさん(プティ散策)は安全で安心。
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