rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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楽しみは、知的空間広げゆくとき。
ここで、「知的空間を広げる」などと言っても、たいしたことではない。
いままでに行ったところの地図を見て、まだ行っていない新たな場所を再発見する楽しみである。前のときに、なぜか気付かなかったり、疲れて途中から戻ってしまったりした所だ。
そんな場所を地図で再確認。それが、また楽しみ。
地図は、グーグル。縮尺を変えてみたり、ときには航空写真にしたりする。航空写真は、いわゆる鳥瞰図であるから楽しい。グーグルの地図は、マウスでドラッグするとどこまでも続いている。まったく、ありがたい話である。
そんなわけで、地図を見ながら知的空間を広げることができる。些細なことかもしれないが、楽しい時間を過ごせることも事実。
ここで、「知的空間を広げる」などと言っても、たいしたことではない。
いままでに行ったところの地図を見て、まだ行っていない新たな場所を再発見する楽しみである。前のときに、なぜか気付かなかったり、疲れて途中から戻ってしまったりした所だ。
そんな場所を地図で再確認。それが、また楽しみ。
地図は、グーグル。縮尺を変えてみたり、ときには航空写真にしたりする。航空写真は、いわゆる鳥瞰図であるから楽しい。グーグルの地図は、マウスでドラッグするとどこまでも続いている。まったく、ありがたい話である。
そんなわけで、地図を見ながら知的空間を広げることができる。些細なことかもしれないが、楽しい時間を過ごせることも事実。
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降りたことない駅で下車、ささいな発見。
いままでに降りたことのない駅がたくさんある。何となくわかっているようで、知らない場所である。そんな駅で下車してみると、意外にも多くの発見があって楽しい。
あるいは、他の駅の周辺にもあったことかもしれない。似たり寄ったりということは、世間に多い。しかし、そんなときも再発見の楽しみがある。
今までに一度も来たことがないはずの場所でも、何となくそこが懐かしかったり、思い出に残っているような気がすることもある。既視感(デジャビュ)というのであろうか。
そんな体験ができるので、降りたことのない駅で下車して、その周辺を歩いてみるのも、なかなかの楽しみである。
いままでに降りたことのない駅がたくさんある。何となくわかっているようで、知らない場所である。そんな駅で下車してみると、意外にも多くの発見があって楽しい。
あるいは、他の駅の周辺にもあったことかもしれない。似たり寄ったりということは、世間に多い。しかし、そんなときも再発見の楽しみがある。
今までに一度も来たことがないはずの場所でも、何となくそこが懐かしかったり、思い出に残っているような気がすることもある。既視感(デジャビュ)というのであろうか。
そんな体験ができるので、降りたことのない駅で下車して、その周辺を歩いてみるのも、なかなかの楽しみである。
ある日ふと、「無意味の意味」を閃(ひらめ)き悟(さと)る。
何気なく今までは、「人生の意味」などを考えたものである。そして、自分自身をその考えと比較をしたりして、焦(あせ)ったり、葛藤を生じた。つまり、一種の心のジレンマである。
そのようなことは、当然なことと言ってしまえばそれまで。おおむね「金持ちになりたい」とか「うまいものが食べたい」などと思う。そんな欲望に支配をされて生きているのが普通。
しかし、それは違うのではないか。自分自身が考えて、自分自身を駆り立てているのであって、そんなことをしてみてもキリがないだろう。
世の中には多くの「無意味」があるからこそ、「意味」の意味があるのである。それは、空気があっても自分が全部を吸うのではないことに、ちょっと似ているのではないだろうか。
何気なく今までは、「人生の意味」などを考えたものである。そして、自分自身をその考えと比較をしたりして、焦(あせ)ったり、葛藤を生じた。つまり、一種の心のジレンマである。
そのようなことは、当然なことと言ってしまえばそれまで。おおむね「金持ちになりたい」とか「うまいものが食べたい」などと思う。そんな欲望に支配をされて生きているのが普通。
しかし、それは違うのではないか。自分自身が考えて、自分自身を駆り立てているのであって、そんなことをしてみてもキリがないだろう。
世の中には多くの「無意味」があるからこそ、「意味」の意味があるのである。それは、空気があっても自分が全部を吸うのではないことに、ちょっと似ているのではないだろうか。
歩くとき、両手に杖を持つ人もあり。
「両手に花」という言葉は聞いたことがあるが、「両手に杖」というのは知らない。しかし、ここのところ両手に杖をもって歩いている人をしばしば見かける。
おそらく、体重が足にかかるのをやわらげているのだろう。とくに、目方の重い人は、足の負担を軽くしないと痛みが激しいようだ。階段を下りるときなど、一歩ごとに苦痛を感じるらしい。
「転ばぬ先の杖」というのもある。かつては、「杖に頼ると足が弱くなるので、なるべく杖を使わないほうがよい」などと言った。しかし、最近になって杖に頼らざるをえない人が増えてきたようだ。
「スフィンクスの謎」にあるように、「老人は三本足」であるのが、洋の東西にかかわらず現実なのかもしれない。
「両手に花」という言葉は聞いたことがあるが、「両手に杖」というのは知らない。しかし、ここのところ両手に杖をもって歩いている人をしばしば見かける。
おそらく、体重が足にかかるのをやわらげているのだろう。とくに、目方の重い人は、足の負担を軽くしないと痛みが激しいようだ。階段を下りるときなど、一歩ごとに苦痛を感じるらしい。
「転ばぬ先の杖」というのもある。かつては、「杖に頼ると足が弱くなるので、なるべく杖を使わないほうがよい」などと言った。しかし、最近になって杖に頼らざるをえない人が増えてきたようだ。
「スフィンクスの謎」にあるように、「老人は三本足」であるのが、洋の東西にかかわらず現実なのかもしれない。
闇雲に歩くのでなく、地図を見ておく。
駅周辺の散歩をするときは、ただ闇雲に歩くのではなく、あらかじめ地図を見ておくとよい。どこに何があるかという見当を付けておくことも、ある程度は必要なのではないか。
もっとも、まったく何も調べずに歩いてみると、思わぬ発見があったり、予期をしなかった光景を見たりする。そして、そのときのインパクトは大きい。だから、必ずしも予備知識などは必要ないのかもしれない。
あらかじめ地図で見ておくというのは、そのこと自体が最初の歩行に等しいのではないか。実際に歩くわけでないが、ある程度の擬似体験ができる。どこをどう曲がるか、どこに何があるか、そんなことが知識として得られるので、実際に行ったときに再確認をして、そこで再発見ができるのである。
駅周辺の散歩をするときは、ただ闇雲に歩くのではなく、あらかじめ地図を見ておくとよい。どこに何があるかという見当を付けておくことも、ある程度は必要なのではないか。
もっとも、まったく何も調べずに歩いてみると、思わぬ発見があったり、予期をしなかった光景を見たりする。そして、そのときのインパクトは大きい。だから、必ずしも予備知識などは必要ないのかもしれない。
あらかじめ地図で見ておくというのは、そのこと自体が最初の歩行に等しいのではないか。実際に歩くわけでないが、ある程度の擬似体験ができる。どこをどう曲がるか、どこに何があるか、そんなことが知識として得られるので、実際に行ったときに再確認をして、そこで再発見ができるのである。
外食は、皿にも大きな問題がある。
外食は、おいしいものが手軽に食べれて、とても楽しい。しかし、素材のことを考えると、ちょっと心配。即席のものが、多くなったからだ。
例えば、ギョーザ。昔は、店で一つ一つこねて作っていた。しかし、最近は出来上がったのを大量に買って、冷凍庫にしまっておく。必要に応じて取り出すので、半年も前に作ったのを食べることになる。冷凍だから、味はよい。しかし、作成時からいろいろな化学薬品が混じっている。そして、解凍してそれをそのまま食べることになる。
また意外なことに、外食では食器、つまり皿などにも問題がある。店の作業を見ていると、洗剤の液にドボン。そして、水でサッと流して上向きに重ねて置く。よく漱(すす)がないので、当然ながら洗剤が皿の中にかなり残っていて、その上に料理が載る。ラーメンでは、洗剤入りのスープ。
何とかして、化学薬品症候群に注意をしたいものだ。
外食は、おいしいものが手軽に食べれて、とても楽しい。しかし、素材のことを考えると、ちょっと心配。即席のものが、多くなったからだ。
例えば、ギョーザ。昔は、店で一つ一つこねて作っていた。しかし、最近は出来上がったのを大量に買って、冷凍庫にしまっておく。必要に応じて取り出すので、半年も前に作ったのを食べることになる。冷凍だから、味はよい。しかし、作成時からいろいろな化学薬品が混じっている。そして、解凍してそれをそのまま食べることになる。
また意外なことに、外食では食器、つまり皿などにも問題がある。店の作業を見ていると、洗剤の液にドボン。そして、水でサッと流して上向きに重ねて置く。よく漱(すす)がないので、当然ながら洗剤が皿の中にかなり残っていて、その上に料理が載る。ラーメンでは、洗剤入りのスープ。
何とかして、化学薬品症候群に注意をしたいものだ。
継続は力なりけり、つくづく思う。
「継続は力なり」という言葉を聞いたことがある。まったくそのとおりだと思う。
プログなどを見ても、毎日続けている人と、途中で投げ出してしまう人がいる。期待したほどの訪問者がいないので、励みにならないのかもしれない。また、無意味なことをしていると考えて、いやになってしまったのではないか。
私は、あまり周囲のことは気にしない。誰が、どう思ってもよい。
また、金持ちになりたいとか、有名になりたいとは思わない。むしろ、その反対なのである。
嘘だと思ったら、だいぶ前に作った「私の福音書」を確かめていただきたい。もしも、信じられなかったら ここ をクリックして納得なさってください。
「継続は力なり」という言葉を聞いたことがある。まったくそのとおりだと思う。
プログなどを見ても、毎日続けている人と、途中で投げ出してしまう人がいる。期待したほどの訪問者がいないので、励みにならないのかもしれない。また、無意味なことをしていると考えて、いやになってしまったのではないか。
私は、あまり周囲のことは気にしない。誰が、どう思ってもよい。
また、金持ちになりたいとか、有名になりたいとは思わない。むしろ、その反対なのである。
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