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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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Googleの地図見たきゆえ、Java学びおり。


ここのところ、何とも大変なことを始めてしまった。
なぜならば、今ごろになってプログラミングなのである。そんなことをしているのは、Googleの地図を何とかして使いたいから。

そんな動機や原因を考えると仕方がない。
具体的には、「HTML」と「Java Script」のアルゴリズム。かつてやった「Java」プログラミングほどは難しくない。しかし、ホームページビルダー上でソースを作成してみると、メモ帳などと異なって文字がとても小さい。

いきおい目の負担が大きくなる。そうかと言って、メモ帳では行間が詰まってダメ。テラパッドなどがよいのであるが、もはや忘れてしまった。だから、目をショボショボさせながらするんだが、脳のリフレッシュにはよいかもしれない。
ご参考までに、ここ を。みなさんも、いかが?
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プチさん(プティ散策)で初めての駅、心ときめく。


今まで、プチさん(プティ散策)などはしていないから、不必要なところへは行かなかった。そして、通過をする駅にもわざわざ降りることなどもしなかった。だから、まったく降りたことがない駅が多い。

そんなわけで、知らない駅に降りるときは、ちょっと心がときめくのである。
それは、ちょうど若い時代だったころに初めての人に会う心境と似ている。初々(ういうい)しい気持ちがないこともないからだ。

しかし、実際に歩いてみると何となく見知っている気持ちがしないこともない。つまり、来たことがない場所でも想像の範囲内であることが多いからだ。まったく予期をしなかったことなども、めったにない。

そんな中で、再発見があれば幸せである。

プチさんは、小さな心の旅でもあるか?


アバンチュールなどと言ったら、かなり大げさであろう。
そうかと言って、単に冒険とでも言ったら、なおさら誤解をうけかねない。いわゆる小さな「心の旅」なのである。

フランス語からきたアバンチュール(aventure)は、「恋の冒険」というか「火遊び」にも近いニュアンス。老いてからのプチさん(プティ散策)は、心の旅路とでもいうか、いわゆる心の冒険なのである。小さなことでも、心がときめく。また、いつまでも飽きない。

身体はすぐにへたってしまうが、気持ちは鮮やかなのである。
そんな意味で、若いころの恋のような感情を否めない。つまり、残りの人生に対する名残(なごり)なのであろう。歩いていると細かいことでも、改めて驚きがあるのはそのためである。
「舞鶴」という言葉あり、悲しいひびき。


舞鶴には、行ったことがない。だから港なども、実際には知る由もない。
しかし、報道などで「京都府舞鶴市の朝来(あせく)川南側の雑木林で、府立東舞鶴高浮島分校1年小杉美穂さん(15)が他殺体で見つかった事件で、遺体の傷跡から、凶器はバールのようなものであることが府警舞鶴署の捜査本部の調べでわかった。」などと知ると、何となく哀れで悲しい気持ちになるのはなぜだろうか。

それは、おそらく舞鶴が戦後の引き揚げ時代の帰港地だったからであろう。そのように思いは異なっても、言葉によって感情は転移するもののようだ。

既視感(デジャビュ)などと同じように、人間の心の中に経験がなくても規範を刷り込むようなことがあるらしい。
道を歩いても、知的空間!


舌足らずで、何とも様(さま)にならない作品。
でも、私は種田山頭火や尾崎放哉のことを思い出したりする。あまり、スタイルや内容のことを気にしなくてもよいと思う。
畢竟、自分自身がよければよいのであるから。

世の中には、五・七・五の形式が多い。
俳句を初めとして、川柳やモットー(標語や座右の銘など)まで。あらゆるところに、そんな言葉があふれている。語呂(ごろ)がよいのかもしれない。

しかし、私はいつも、それが「結句」ではないので何となく先があるように思う。やはり、「挙句」(あげく)としたほうが言葉の据わりがよいのではないか。
そんな意味で、私は新句(十九音)なのである。



ふと「何をしたらいいのか?」わからなくなる。


情けない話ではあるが、最近になってのこと。何かをしていて中断すると、何をしていたかを忘れてしまうことがある。つまり、途中で電話が入ったりすると話し終えてから、さて何をしていたのだろうなどと考えることがあるのだ。

以前は、そんなことがなかった。
サブルーチンへ行って、メインルーチンへ戻れないプログラムのような感じ。何となくボケが始まってきたのか、いわゆる恍惚の人になりかかっている様子に、我ながら愕然とする。

身体はすぐに疲れやすくなっちゃうし、記憶はふとした拍子に薄れてしまう。何とかならないものであろうか。しかし、もしかしたら償却年数を経た機械の損耗のように、廃棄しないと解決できないのかもしれない。
説法の中の世界に入(い)りこむ私(わたし)。


『父母恩重経』(ぶもおんじゅうきょう)というのがある。
実際に釈迦が説教をした経典ではなく、だいぶ後に中国で作られたいわゆる擬経らしい。しかし、その内容が素晴らしい。

私は、いつも愛読をしている。そして、たいがいはその中に引き釣りこまれてしまう。何となく、身につまされる内容だから。

古臭い内容などと、言ってはいけない。また、釈迦の説いたものではないなどと、言う必要もない。素直に読めばいいのである。その内容は、現在でも大いに学ぶべきものがある。つまり、現代人にも必要な内容なのではないか。

そんな意味で、「仏説『父母恩重経』全巻」としてここに写経をしてみた。
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