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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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『冬の旅』、身にしみじみと味わいがあり。


シューベルトの『冬の旅』は、私の大好きな歌曲。聴けば聞くほど、味わいがある。そして、それが次第に深まっていく。

いつも手持ちのフィッシャー=デスカウの盤などで聴くが、きょう(2008年4月14日、雨の月曜日)はBS102、バリトンのクリスティアン=ゲルハーヘルで聴いた。ピアノは、ゲロルト=フーバーである。

歌詞が、字幕で出るのも素晴らしい。ピアノ伴奏も、鮮やか。とくに、最後の「辻音楽師」。24曲目であっても、疲れた様子はなく、改まってものすごく真剣な顔付きで歌っていた。

<誰も耳をかたむけない。目もくれない。皿は、いつまでも空(から)。>
すべてをあるがままに受け入れる。そして、ふと聴いている自分自身をそこにエンパシー(empathy=感情移入)して、つくづく考えてしまうのである。

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死んだとき、妻がうろたえないようにする。


これでは、ちょっと舌足らずかもしれない。
つまり、「私が死んだときに後に残った妻が、何をどうすればよいかなどで迷ったりしないような配慮が、ぼつぼつ必要な時期になった」ということ。

例えば、葬式に来て「ご主人に貸した五百万円は、いつ返してくれますか?」などと言って、未知の人が詐欺をしようとするケースが増えているらしい。
どこに何があるかとともに、貸借などもリストアップしておく必要があろう。

柳田国男の『遠野物語』に出ていた話。
茸(きのこ)を食べて、子ども一人を残して一家が亡くなったときに、村人が次々来て、「これは、私が貸したものだ」とか「生前にくれると約束した」などと言い、糂汰瓶(じんだがめ)一つ残らず持って行ってしまった。

もっとも、兼好法師の『徒然草』(第九十八段)には「後世を思う者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持っちゃダメ。」というくだりもあるが。
老いたらば、何をするにも簡素にしたい。


若いころは、「あれもしたい」「これもしたい」と際限がなかった。
しかし、老いてくると「そうはいかない」。
つまり、体力が要求に追いつかないからである。

そこで、日々の生活を簡素にしていく必要がある。
持ち物などは、死んでしまったら二束三文。あまりため込んでも、仕方ない。それどころか、後に残った人たちの笑いものになってしまう。

でも、私の場合。どうしても、簡素にできないものがある。
それは、プログとホームページ。いっそのことやめてしまおうかと考えたこともある。しかし、「生きている照明」という自分自身の目的があるので、そう簡単にはやめれない。

そんなわけで、手数だけでも簡素にする方法を模索しているのだが、……
カンチレバ、膝の痛みを早めるばかり。


最近、リュックを背負っている人が多い。誰かが始めた、無責任な流行であろう。その結果、しばらくするとほとんどの人が膝を痛めてしまう。

カンチレバ(cantilever)とは、「片持ち梁(ばり)」とも言って「ト」の形のようになっている梁(はり)である。つまり、「ト」の縦棒から横にはみ出している部分をバランスを取って支える。力学的には、不安定きわまりない。

そもそも人間が立っていること自体、不自然で不安定な姿勢。なぜならば、元来は「梁」(はり)として作られた背骨を「柱」として使っているからだ。

当然のことながら、加齢とともにダメージがある。とくに重力を支える膝の部分。それをわざわざ早めるために、リュックを背負う。軍隊などの重装備なら仕方がないが、ハイキングなどで荷を背負うのは愚かなことと思う。

本当は、荷物を頭に載せるのが力学的に好ましい。しかし、不安定になるので手で持つ。背負うと両手が使えるようになるので、さらなる人類の進化が、もしかしたら数万年後にあるかもしれない。



コツコツと続けてみたり、プログの記述。


誰も見ぬままにとでも、言ってよいかもしれない。それでも、自分自身が「生きている証明」としてプログを続けている。プログになる前のメール本文方式のときから数えてみると、今日で4500回をすでに越えた。

それはまったく愚かしいこと、そしてムダなことかもしれない。
でも、個人の日記のことを思えばよろしい。読んでもらうためにインプットしているのではなく、自分自身のメモとして文章を残しているのである。

その文章の内容はともかく、インターネット上では操作が簡単。とくに、検索の機能が優れている。以前は自分自身の内容にハードディスク内の索引を作ったが、最近ではウェブ内でグーグルがほとんど拾ってくれる。したがって、どこに何を書いたかなどを後で簡単に調べることができる。

何ともありがたく、すばらしいシステムである。
何となく不真面目であるメールの世界。


ここのところ、いかがわしい内容のメールが、たくさん来るようになった。中には、インチキや汚らわしい内容のものも多い。

科学技術の最先端ツールであるインターネットをくだらないことに利用する愚かさは、何とも困ったことである。もっとも、そのようなことを続けてメリットがある立場も考えられる。

現代人がインターネットの社会で生きているのは、あたかもニワトリが飼われているような状態に置かれているのかもしれない。自分自身の立場がわからないままに、貪欲に餌をついばんでいる。

やってくるメールの半分以上が、スパムや迷惑メールであると、もはや情報化社会で何をしているのかが、私にはわからない。ムダが多く、効率が悪いからである。


要(い)らぬもの、使わぬものが、あまりに多し。


部屋にある品物や持ち物を改めてみて、まったく驚いた。
いわゆるガラクタや不要物が、あまりにも多いのである。おそらく、死ぬまで使わないであろう品物が、かなりあった。そして、今となっては何のために、それを求めたのかがわからない。

品物ばかりではない。自分自身が作成したメモなども、まったく価値がないだろう。もしかしたら、小説などのモチーフに使おうかとも考えたのだが、その必要もなくなってしまった。

したがって、少しずつ整理をしていこうと思う。まず、不要なものは思い切って捨てる。また、くだらない断片やメモなどは削除してしまう。そのような作業をぼつぼつ始めたい。

人生とは、いったい何のためにあるのだろうか。

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