rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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たのしみは、まれに友来て語りあうとき。
橘曙覧ではないが、意外に楽しいことが日々にある。
それも、ふっと生じたり、何気なくやってくる。
つまり、花が咲いていることに気付いたり、思いがけなく友が来たりすること。
朝起きて見ると、昨日まで青かったブーゲンビレアの苞(ほう)が、急に紅くなったりしているとうれしく、楽しい一日になる。
また、友だちが久々に尋ねてくれると、楽しい会話ができる。
しかし、親しかった友だちの多くが、すでに亡くなってしまった。
でも、思い出が残っている。
花が咲いたりしても、その友を思い出すことがある。
蝋梅(ろうばい)の季節になると、大岩さんが偲(しの)ばれる。
橘曙覧ではないが、意外に楽しいことが日々にある。
それも、ふっと生じたり、何気なくやってくる。
つまり、花が咲いていることに気付いたり、思いがけなく友が来たりすること。
朝起きて見ると、昨日まで青かったブーゲンビレアの苞(ほう)が、急に紅くなったりしているとうれしく、楽しい一日になる。
また、友だちが久々に尋ねてくれると、楽しい会話ができる。
しかし、親しかった友だちの多くが、すでに亡くなってしまった。
でも、思い出が残っている。
花が咲いたりしても、その友を思い出すことがある。
蝋梅(ろうばい)の季節になると、大岩さんが偲(しの)ばれる。
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「乱」と「猿の惑星」とを交互に見たり。
ヒストリチャンネル(255ch)とムービープラス(220ch)で、同じ時間帯に「乱」と「新・猿の惑星」をやっていた。3月14日(金曜日)である。
どちらも、前に見た映画。そこで、互いにタイムシェアリングをして見た。つまり、途中のコマーシャルがきたときに、互いにチャネルを変える。
「乱」は「リア王」であり、「猿の惑星」はいわゆる「桃太郎」である。そんな見方をしてみた。「乱」のほうはわかりやすいが、「猿の惑星」は何となく身勝手な征伐・退治的。つまり、価値観の異なるところへ出かけていって、自分の側を正当な立場として考え、相手側を恐れて殲滅しようとする。
いずれの作品も、人間の愚かさを描き出しているように思う。それぞれに、素晴らしい映画だと思う。
ヒストリチャンネル(255ch)とムービープラス(220ch)で、同じ時間帯に「乱」と「新・猿の惑星」をやっていた。3月14日(金曜日)である。
どちらも、前に見た映画。そこで、互いにタイムシェアリングをして見た。つまり、途中のコマーシャルがきたときに、互いにチャネルを変える。
「乱」は「リア王」であり、「猿の惑星」はいわゆる「桃太郎」である。そんな見方をしてみた。「乱」のほうはわかりやすいが、「猿の惑星」は何となく身勝手な征伐・退治的。つまり、価値観の異なるところへ出かけていって、自分の側を正当な立場として考え、相手側を恐れて殲滅しようとする。
いずれの作品も、人間の愚かさを描き出しているように思う。それぞれに、素晴らしい映画だと思う。
行くたびに、書き換えてみるプチさんページ。
晴れた日にはデジカメをもって、プチさん(プティ散策)をする。
前に行ったところでも、再発見があってうれしい。
そんなときは、気軽に写真を撮る。
すると、前回よりもベターな画像ができることがある。当然のことながら、前の写真と置き換える。そんな楽しみがある。
楽しみと言っても、ちょっと面倒なことは事実。しかし、「老化予防」の一環としては、すばらしい作業ではないか。文章を書くのは面倒であるが、デジカメで撮影するのは簡単。昔のような焦点距離やシャッター速度などのセットは不要で、ただパチリですむからである。
技術の進歩は、つくづくとありがたいことだと思う。
晴れた日にはデジカメをもって、プチさん(プティ散策)をする。
前に行ったところでも、再発見があってうれしい。
そんなときは、気軽に写真を撮る。
すると、前回よりもベターな画像ができることがある。当然のことながら、前の写真と置き換える。そんな楽しみがある。
楽しみと言っても、ちょっと面倒なことは事実。しかし、「老化予防」の一環としては、すばらしい作業ではないか。文章を書くのは面倒であるが、デジカメで撮影するのは簡単。昔のような焦点距離やシャッター速度などのセットは不要で、ただパチリですむからである。
技術の進歩は、つくづくとありがたいことだと思う。
青空の日は、デジカメの写りがきれい!
曇った日には、何となくコントラストが悪い。
しかし、空が青く澄み切っている晴れた日には、デジカメの写りがくっきりときれいに仕上がる。なぜかわからないが、きれいに仕上がるのは何ともうれしく、我ながら満足である。
そんなわけで、晴れた日にはデジカメをもってプチさん(プティ散策)。
ブラブラと歩きながら、思いついた対象をパチリパチリ。
川の流れや木の姿。神社や仏閣。そして、変った表札。お墓などまで。
やってみると、いろいろと興味は尽きない。
帰ってから、すべての写真をハードディスクに移す。そして、そこで自分なりに編集や削除。デジカメだからこそ、そんな楽しいことができる。
下手くそな出来上がりではあるが、自分自身の思い出のためにホームページに張り付けておこう。
曇った日には、何となくコントラストが悪い。
しかし、空が青く澄み切っている晴れた日には、デジカメの写りがくっきりときれいに仕上がる。なぜかわからないが、きれいに仕上がるのは何ともうれしく、我ながら満足である。
そんなわけで、晴れた日にはデジカメをもってプチさん(プティ散策)。
ブラブラと歩きながら、思いついた対象をパチリパチリ。
川の流れや木の姿。神社や仏閣。そして、変った表札。お墓などまで。
やってみると、いろいろと興味は尽きない。
帰ってから、すべての写真をハードディスクに移す。そして、そこで自分なりに編集や削除。デジカメだからこそ、そんな楽しいことができる。
下手くそな出来上がりではあるが、自分自身の思い出のためにホームページに張り付けておこう。
雨の日は、部屋にこもりて禅などをする。
雨が降ると、プチさん(プティ散策)ができない。
そこで、部屋から出ずに、私なりにテレビを見たり、禅などをする。
しかしテレビはともかく、禅などと言っても、大げさなものではない。
いろいろと考えてみる。そして、その考えを次第に広げる。さらに、広げていけば、やがて考えが「知的空間」(その奥義)に飽和する。
それで、よいのである。
つまり、考えることに飽きてしまったり、敢えてとらわれなければよい。
人間が考えるということ自体、それを考えるのは脳のもたらす誤謬だからである。と、まぁ、私はそんなことも考える。
したがって、禅などと言っても私の場合は、意味のないことをする無意味を意味づけるようなものであろう。
雨が降ると、プチさん(プティ散策)ができない。
そこで、部屋から出ずに、私なりにテレビを見たり、禅などをする。
しかしテレビはともかく、禅などと言っても、大げさなものではない。
いろいろと考えてみる。そして、その考えを次第に広げる。さらに、広げていけば、やがて考えが「知的空間」(その奥義)に飽和する。
それで、よいのである。
つまり、考えることに飽きてしまったり、敢えてとらわれなければよい。
人間が考えるということ自体、それを考えるのは脳のもたらす誤謬だからである。と、まぁ、私はそんなことも考える。
したがって、禅などと言っても私の場合は、意味のないことをする無意味を意味づけるようなものであろう。
それなりのバランスをとることが健康!
健康などと言っても、個人的にはかなり違った状態である。
豊富な栄養を摂っていても健康でない人もいるし、ものすごい偏食をしていても元気な人がいる。その違いには、理解に苦しむものがある。
つまり、ホメオスタシスを行っている機能や状態は、すべての人に多かれ少なかれ違いがあるようだ。幼少時からの習慣によって、自分自身の状態をどう保つかが異なってくるのだろう。
むろん、人間の身体も結果に対してフィードバックしているのだから、原因が好ましくなければ、おかしくなってしまう。つまり、その原因と結果の相関は、個人個人によって異なるように作られているのではないか。
だから、健康に関しては一概に、どうしたらどうなるとは言えないことのほうが多い。つまり、恒常性が個人個人によって、かなり異なっているからである。
健康などと言っても、個人的にはかなり違った状態である。
豊富な栄養を摂っていても健康でない人もいるし、ものすごい偏食をしていても元気な人がいる。その違いには、理解に苦しむものがある。
つまり、ホメオスタシスを行っている機能や状態は、すべての人に多かれ少なかれ違いがあるようだ。幼少時からの習慣によって、自分自身の状態をどう保つかが異なってくるのだろう。
むろん、人間の身体も結果に対してフィードバックしているのだから、原因が好ましくなければ、おかしくなってしまう。つまり、その原因と結果の相関は、個人個人によって異なるように作られているのではないか。
だから、健康に関しては一概に、どうしたらどうなるとは言えないことのほうが多い。つまり、恒常性が個人個人によって、かなり異なっているからである。
こだわりのない日々であれ! こころ安けく。
こだわりがあると、いつの間にか神経が参ってしまって疲れる。そして、その結果、病気になりやすいことも事実。
心を安らかに保つためには、あまり物事にこだわってはいけない。
「こころ安けく」とは、私なりに「心が安らかであるために」というような意味である。しかし、文法的には間違っているかもしれない。
だいたい「安けく」なんていう活用があるのだろうか。
「きりはなこくった」という言葉がインターネット(ウェブ)で調べてもないように、独自なものかもしれない。文学作品では無責任であって許されなくても、新句(十九音)の中ではいいのである。
むろん「ら抜き」や「体言止め」なども、一向にかまわない。
こだわりがあると、いつの間にか神経が参ってしまって疲れる。そして、その結果、病気になりやすいことも事実。
心を安らかに保つためには、あまり物事にこだわってはいけない。
「こころ安けく」とは、私なりに「心が安らかであるために」というような意味である。しかし、文法的には間違っているかもしれない。
だいたい「安けく」なんていう活用があるのだろうか。
「きりはなこくった」という言葉がインターネット(ウェブ)で調べてもないように、独自なものかもしれない。文学作品では無責任であって許されなくても、新句(十九音)の中ではいいのである。
むろん「ら抜き」や「体言止め」なども、一向にかまわない。