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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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倶会一処、本当だろうか? 信じられない。


倶会一処(くえいっしょ)という言葉がある。
仏教の言葉で、墓石などに彫られることもあるみたい。

意味は、「念仏を唱える人はすべて西方浄土に往生し、死後も一つところで出会う」という意味。つまり、「南無阿弥陀仏」と言った人は死んでも同じところに集まるのだ。

「最後の審判」や「復活」などと同じで、何とも眉唾な話。

私の考えとは異なるので理解ができない。
青空のホームページ』の「多磨霊園(多磨墓地)」に墓石があった。また、意味は「私の仏教(サマリー)」にある。
墓にまで彫るのだから、そのように信じる人も、実際にはいるのであろう。

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一生は恥のかき捨て、未完に終わる?


残念ではあるが、完全なことなどは私にムリである。
そもそも力不足であるから、いくらがんばっても完成などはできない。
そこで、仕方なくあきらめるのである。

しかし、いろいろと考えてはみる。
完全を求めるのは、一種の病気ではないか。また、物欲・金に対する欲、さらには名誉欲なども、考えてみれば本能ではないので空しいものである。
しからば、何を求めているのか。
それは、知的な充足か?

『パパラギ』という本に、酋長ツイアビの演説として「考えるという重い病気」というタイトルがあった。
欲などというものは、すべて脳のもたらす幻影なのかもしれない。

人生は、恥・失敗の連続であり。


いろいろ考えてみると、今までには多くの「恥」や「失敗」があった。むしろ、「恥・失敗」の連続であると言ってよい。

中には、楽しい思い出もあることはある。しかし、無念な記憶のほうが多いのではないか。

ゲーテは、晩年になって一生を思い出し、「楽しいことは数時間もなかった」とエッカーマンに吐露(とろ)したという。かつて『ゲーテとの対話』で、読んだことがあるような気がする。しかし、うろ覚え。もしかしたら、「三分間」だったかもしれない。

とにかく、ゲーテのような偉大な芸術家・文学者でもそうであれば、自分がそうあっても畢竟(ひっきょう)仕方がないのではないか。
でも、日々何とか自分自身では、それなりの納得ゆく生き方をしたいものだ。

全国の「さくらがおか」を調べてみよう。


先日、世田谷美術館に行った帰りに、用賀駅から成城学園駅まで東急バスに乗った。すると、途中に「さくらがおか」というバス停があるではないか。実は、私の住んでいるところも「さくらがおか」なのである。

そんなことがあったので、桜の開花に先立って、いったい全国にどのくらい「さくらがおか」という地名があるかを調べてみようと考えた。

すると、何と113ヶ所もあった。がんばってすべてを調べたつもりだが、まだあるかもしれない。
もしも、あなたがご存知なら教えてください。

私が調べた一覧は、『青空のホームページ』「文学エクジビション」の「言葉アラカルト」にある「桜ヶ丘という地名・桜ヶ丘という駅名」にあります。

デジカメの写真を整理・分類しよう!


最初のころ、デジカメの写真はハードディスクに入れたままだった。しかし枚数が増えても、すぐ見れるアルバムにしておきたいと考えた。
いろいろな方法があるだろうが、私は次のような手順を守っている。

(1) 散歩に出かけて撮ると、100枚前後になる。場所の表示メモや後でする説明のために、看板や番地表示板などもすべて写してしまうからだ。

(2) それをいったんすべてハードディスクのワークに移す。むろん、デジカメのメモリには一枚も残さない。

(3) それらを分類・整理する。
その過程で、半分以上のネガ?が削除されて失われる。

(4) 編集をして、「プチさん(小さい散策・駅周辺再発見)シリーズ」などの本文に追加・交換をする。
「こんなこと、いつかあった」と思うことあり。


道を歩いていると、ふと前にもここに来たような気がしたりする。
また、本を読んでいても、やはりすでに読んだような気がする。
デジャビュ(既視感)というのであろうか。

おそらく、その経験が遺伝子に組み込まれているのであろう。
過去の時代には必要であったことが、すでに科学技術の発達した現代では不要になってしまったり、意味がわからなくなってしまったことが多い。
だから、ふと記憶の中に似たことを思うということは、かつてはそれなりの内容があったのであろう。それが、すでに何故かわからない。

やがて、すべてがすでに行われていたことで、自分自身がそれを思い出せないだけではないかというような不安が脳裡をよぎる。旧約の『伝道の書』などを読むと、何となく不安になるのはなぜだろうか。

くさってもベンツであるか? それは間違い!


谷沢川に沿って等々力渓谷を下り、ジブラルタ生命保険のところに出て、目黒通りが多摩川に突き当たろうとしたところにあった自動車屋の置き場。そこに、赤いベンツのスポーツカーが放置されていた。

「腐ってもベンツ」と言いたいところだか、実際はそうでない。

フェンダーに穴が空いていて、タイヤはすべて空気が抜けている。赤色も褪(あ)せて、もはや走ることもできないままに放置されている。

かつては、愛用された車であろうが、何とも情けない有様になっている。もっと早い時期にスクラップに出してしまえばよかったのだろうが、何らかの事情で残してあるのだろう。何となく、「恥をさらしている」ような感じである。

なお、写真は『青空のホームページ』の「老化予防入門」、そこの書きかけた「老人学」にあります。

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