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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「ブルータス、お前もか?」とも似ているCOOP。


「よもや間違いあるまい!」と思っていたところが、……。信用をしていたり、期待をしていたところに、裏切られた感じ。そんなふうに思う人は、かなり多いのではないか。

実は、私は信じていなかったのである。
かつて恩田氏から全農のコンピュータセンターができるときに参加を勧められた。30年くらい昔のことである。しかし、折角ではあるが断ってしまった。

つまり、組織が大きすぎるので、それをかいまくぐる問題が多いのではないかと思った。そして、あまり思うようにできる職場ではないとも考えた。だから、JEOLに行ったのである。

そんな経過があったから、私はCOOPよりもシステムの小さい「神農センター」から野菜や果物、あいがも米、そして「ニッコー食品の冷凍ぎょうざ」などを購入している。
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何となく、世のからくりに気付き始めぬ。


いつごろからだろうか?
ふと、世の中全体が何となく傀儡(くぐつ)のように感じ始めたのである。
むろん、裏づけや証拠のような確証はない。
しかし、傀儡師(くぐつし)や傀儡回しのような存在に対する気配をうすうす感じるようになった。

もともと、傀儡は歌などに合わせて動く操(あやつ)り人形のこと。ポーの作品にも「メルチェルの将棋指し」というのがある。
その後、日本では寺社に仕えて、布教などに従事する人も言うようになった。

そして、それが私の場合、インテリジェント・デザイン論と組み合わさって得体の知れない不気味な存在となってきたのだが、……
外食をやめ、食べ物にしばらく注意!


ここのところ、何となく体調が悪い。
そこで、しばらく外食を減らそうと思う。妻との手前、まったくやめるわけにはいかないが。
少なくとも、一人で食堂へ行くことは当分しない。

一回ごとの摂取量が微量であっても、長い間食べ続けると身体に影響が出てくる物質がある。そんな物質のために、やがて「化学薬品症候群」があらわれることは必然。そして、そのようになると原因が特定できないために、自分の身体にとっては大きな問題になる。

とくに味付けをよくしてある外食の場合は、何を食べさせられているのかわからないので、慎重にならざるをえない。
自分なりの宇宙観を作る楽しみ。


難しい文学を読む。しかし、私にはわからない。
精緻な美術、例えば絵画に接する。まったく理解できない。
偉大な音楽を聞く。交響曲などは、途中の楽章で「早く終わればいいなぁ!」などと考えてしまう。

そんなことでは、仕方がない。むしろ、幼稚なものであっても、自分自身のレベルに合ったものがよい。つくづくと、そう思う。

『方丈記』に「がうな」と「みさご」の話がある。

<寄居虫(がうな)は、小さき貝をこのむ。これ身知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。>

まったく、その通りだと思う。

無駄なこと、あまりに多き現代社会。


情報が氾濫し、何でも満たされるような社会ではあるが、実際には逆。
確かに先端技術はすばらしい。一昔前と比べれば現代社会は、生活が大いに改善されたはずだ。

しかし、心の問題となると別。
相変わらず、犯罪や事故などが絶えない。同じことの繰り返しならよいが、ますます悪いほうにエスカレートしていく。

何となく、子どもに武器を与えるような構図が現代社会ではないだろうか。もっと精神的な基本的問題を先に解決しなければならないところ、物質文化だけが先行してしまった。

いったい、今後どうなるのであろうか。

書きかけて、そのままになる「百舌の速贄」。


「百舌の速贄」(もずのはやにえ)とは、百舌(もず)という鳥が虫などを捕らえて、木の枝に刺しておく習性を言います。後で、食べるためのものですが、たいがいの場合は放置されてしまうようです。

つまり、どこに貯えたかを百舌が忘れてしまうのです。
そのようなことから、私たちが何かを中途半端にしたままで、未完成の状態でおくことなども言うようになりました。

ホームページに何かを書こうとして、書き始めます。しかし、それを忘れてしまって、完成できないことなど現実によくあることです。実に情けない次第。

「百舌の速贄」の記述自体も、何回目だろうか。yok先生のところにも、書いたうろ覚えがある。つまり、「百舌の速贄」の「百舌の速贄」を恥も外聞もなく繰り返している。
後でしようと思っても、できないことが多い。したがって、その都度ある程度の仕上がりにしておく必要があるようですね。


行き詰まるシステムなどは、ほどほどにする。


何事も複雑になると、行き詰まってしまうらしい。
また、あまり完全を求めてもダメ。
ペルシャの絨毯(じゅうたん)は、昔からなぜか織り間違いを一箇所だけ残しておくらしい。どうして、そんなことをするのか。

「キリがないことを追求しては、キリがない。」

それでは、何となく同義反復(トゥトロジー)ではあるが、それは真実であると思う。アントニム(反義語)として、

「キリがないことを追求すると、キリがつく。」

と言って見ると、当然であることがわかる。
何が言いたいのか。言い始めると、キリがないだろう。

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