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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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健康に老い、安らかに死にたくもあり。


ちょっと贅沢かもしれない。
たいがい、よいよいになったり、脳軟化症やアルツハイマーによる寝たきり、そんな状態になる人があまりにも多いから。
でも、ちょっとした心がけで健康に老いることができるらしい。

すると、安らかに死ぬことも夢ではない。
つまり、死ぬ日まで何とか意識がはっきりとしていて、かつ歩ければよい。そんなために、日々の注意が必要になる。

何のことはない。食生活と生活習慣に注意をすることである。
現代生活においても、あまり栄養を取り過ぎない。むしろ、控えめにするほうがよいらしい。生活習慣にしても、激しい運動をしない。もたもたと歩く程度でよいらしい。
何となく、私にも希望が湧いてきた。

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新しい、よい年であるよう、健康で。


明けまして、おめでとうございます。
おかげさまで、何とか幸福な一年を過ごし、きょうここに新しい年を迎えることができました。

今年も皆さまとともに、よい年であるよう、そしてお互いに健康であるよう、心から祈っています。

日々のメールを差し上げていますが、健康についての考え方や人生を豊かにするテーマが含まれています。
しかし、限られた知識の中でまとめたもので、中途半端なものもあるでしょう。それでも、何らかのメリットがあるものもあるはずです。

ちょっとした日常の細かい注意が、健康や幸福につながることが多いのではないでしょうか。そんなことをメールしています。
よろしくお願いします。

一年が、終わろうとする、過不足もなく。


きょうは、おおつごもり(大晦日)。
多すぎることもなく、そうかと言って不足したこともない。何とか一年が終わろうとしている。病に苦しめられたが、それでもよい年であったと思う。

あと、除夜の鐘を付きに行かなければならない。そして、新年を迎える。

近くの観蔵院という寺であるが、素晴らしい鐘の響き。鎌倉五山、例えば建長寺・円覚寺などの鐘と比べても遜色がない。ここ、五年ほど行っているが、鐘を突くと何とも清々しい気持ちになる。私も妻も、それぞれ付くのは一つずつであるが、それでも百八の煩悩が失われたみたい。
建長寺・円覚寺の鐘の音色の簡単な説明は、「リーダース大事エスト」にある「○梵鐘」を参照下さい。

おまけもある。檀家たちによる枡酒(ますざけ)と甘酒の振る舞いである。妻は甘酒が好きであるが、私は枡酒を二杯もらう。そして、三杯目をこぼさないように持ち帰る。
何と素晴らしい一年の始まりであろう。



どうだろう? こんな施設が要(い)るんじゃないか?


人生においては、いろいろと思いもよらなかったことがらが生じます。
例えば、夫婦・親子間でもトラブルが生じ、そのまま進むと不愉快から始まって、傷害にまで発展することもあるでしょう。ひどい場合は、親族間で殺人事件になってしまうようなことも、テレビニュースなどで知らされます。

そんなときは、しばらくそこを離れて頭を冷やす必要があります。つまり、かっとなって行動をする前に、冷静にならなければなりません。そんなために、いわゆる一時的な「避難場所」「駆け込み寺」のような施設が、あわただしい現代にこそ必要なのです。

また、アパートで孤独死をしたり、ホームレスになって誰も知らぬ間に死んでしまったりしないためにも、安心できる場所が必要なのではないでしょうか。

本来ならば、国や行政で用意をしてくれるとよいのですが、適当なところがありません。そんなわけで、私たちは互いに自分で何とかしなければならないのです。
竜神の木も冬支度、独りさびしく。


聖蹟桜ヶ丘のあいおい証券にあるカイコウズの木である。
冬になると、藁(わら)で包まれる。すると、ますます竜神の形。手足があるみたい。

おそらく、その会社にとっても大切な木であるのではないか。例えば、外国の企業と合弁したときの記念樹。毎年のこと、大事にされているので、私はそんなふうに思う。

また、来年の春まではその姿でしか見られない。暖かくなると藁を脱いで、新しい芽。清清しい姿で現れる。そして、しばらくするとルビー色の花を咲かす。とても、楽しみである。

なお、その姿については、ここを見てください。

間違って、自分自身の「歩」を取りにいく。


私は争いが大嫌いなので、勝負事・賭(かけ)・籤(くじ)などをしない。しかし、頭のトレーニングとして、パソコンで将棋をすることがある。

そんなときに、間違って自分で自分の「歩」を取ろうとしたりする。当然のことながら、取れない。それでも自分の過ちに気づかず、マウスが壊れたのかと疑う。まったく愚かなことである。

また、どちらの番かを忘れてしまって、相手の差し手を待っている。これも当たり前であるが、いつまでたっても進まない。相手が打ってこないので、考えていると勘違いをするのである。まったく、お粗末な次第。

それでも、私のやっている将棋ソフトは我慢強く相手をしてくれる。
まったく有りがたい次第。

直感と精読による会心の一手。


将棋チャンネルで見た入門講座である。
「直感・精読」は、加藤一二三(ひふみ)九段の講座名。続いて「会心の一手」とある。長い経験を重ねると、80パーセントくらいは直感が正しいと言う。残りの20パーセントは、精読をする必要があるらしい。

現代を代表する最強棋士の一人であるにもかかわらず、話し方がていねいで親切。とても好感がもてる、私には。また、痩せた棋士が多い中で、でっぷりとしていて貫禄がある。
そんなわけで、言葉にも重みを感じる。

実際の日常の問題に関しても、大いに学ぶべきことがある。
なぜならば、私もここのところ「直感」の大切さをつくづくと感じ始めているからだ。むろん、当てずっぽうと言うような直感ではない。良く考えて、決めかねるときに行う判断の方法である。
あなたは、いかがであろうか。



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