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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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知的なる、かなり独自な空間作る。


私は、今まで心の中にかなり独自な空間を作った。(と思っている。)
そして、それを自分なりにまとめてみたいとも考えている。
なぜならば、支離滅裂に思われるような理論展開であっても、それなりの構築理由があるからだ。

そのようなことをまとめていると、自分自身でも考えが整理できたり、展開が図れる。そして、その中で考えを自由に飛翔できる。それは、なんとも楽しいことではないか。

私は、もうじき死ぬであろう。したがって、安心立命したいんだ。
そこで、最終的には宗教なども、自分自身用に作っておこう。なぜならば、現時点では自分自身が納得する既存の宗教がないからである。

芸術などもそうであるが、いかに偉大でも自分がその中に入れないものでは仕方がない。大作曲家の交響曲などでも、私には「猫に小判」みたいなことがある。「早く終わればよいなぁ」などとさえ、考えることが多いからだ。



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木漏れ日の道を歩けば、カッコウが鳴く。


小山田の林道を歩いていると、カッコウが鳴いている。
何となく、楽しくなってしまう。

また、季節によってはウグイス・ヤマバトなども。
ウグイスは、まだ谷渡りのようであって完全には鳴かないときが多い。ちょっと練習をしているみたい。
ヤマバトは、ドドッーポ・ドドッーポと何となくさびしげ。

また、夏の暑い盛りには蝉しぐれ。かしましいばかりだ。ここのところ、すっかり涼しくなったので、秋の虫が忙(せわ)しげに鳴いている。
そんな素敵な道を歩いていると、なんだか懐かしい気持ちがしてくる。何となくデジャビュとでもいうのだろうか、かつて幼いころに経験をしたような気がすることがある。

それが、どこだったかは思い出せない。
もしかしたら、母の胎内にいたときかもしれないと思ったりもする。
あなたにも、そんなことがありますか。



ユリカモメ群れなし飛びて、いずくにか行く。


多摩川の砂州で、ユリカモメの一団が羽を休めていた。
聖蹟桜ヶ丘駅付近であるから、海からはかなりの距離がある。鳥たちは散歩というか、物見遊山に来ているのではないだろう。小魚を啄(つい)ばんで、食べるためである。つまり、日々の食事に来ているのではないか。

そう言えば、カワウなども群れなし飛んで来ていることがある。
そのカワウは、上野動物園の中の島から来るそうだ。山科の人が言っていたので、ほんとうだろう。

餌の小魚を求めるために、鳥たちは遠くまで飛ぶようだ。
近所に餌場がないときは、かなり遠くまで行く。むろん、野生の彼らの間には経済などないだろうから、居ながらにして食事にありつくことはない。
動物園でなかば飼われているカワウでも、集団で餌を求めて飛来する。

ユリカモメは、満腹して羽を休めたのであろうか、しばらくすると全部が飛び去っていった。鮮やかなものである。
することを少なくすると、日々は安らか。


若かったころは、「あれもしたい、これもしたい」などという気持ちが強かった。しかし、高齢になって体力が衰えるにしたがって、次第にそのような気持ちが減って、あまり起こらなくなる。
自分の体力の限界を知ったからであろう。

つまり、その気持ちはあったとしても、身体や気力が追いつかないのだ。いきおい、何事も中途半端になってしまう。そして、中途半端すると後で後悔をしたり、心の葛藤が生じる。

そんなことを考えると、高齢になったら、日々生きていくためにすることをなるべく減らすほうがよいかもしれない。必要な最小限のことだけをしていれば、心のゆとりが出てくるんじゃないか。

年金生活者になってからは、むろん仕事のノルマなどはない。だから、考え方を変えて、日々を気楽にゆくことが健康のためにも大切だろう。


足萎えは仕方がないが、めしいちゃうは、や!


先日、蒲田時代にご一緒したTさんのお見舞いに行った。
すでに、彼は寝たきりで動くときは車椅子。そして、片目が見えない。
実は、見舞った私もここのところ、どうも体調がよくないのである。
そこで、ぼつぼつある程度の覚悟を決めておかなければならないだろう。

おそらく、足の故障を起こすのではないか。今までに、かなり重い体重を支えてきたからだ。膝なども、もしかしたらすでにすり減っているのかもしれない。

しかし、いちばん心配なのは目。糖尿病から、失明をしてしまうんじゃないか。
何としても、めしいてしまうのは、やだやだ。車椅子は仕方がないが、目が見えなくなっては、テレビも見れないし、パソコンもできない。

でも、当然の成り行き。
ここのところ、インシュリンの出が悪くなって、食事をした後は数時間も尿糖が残るようになってしまった。昨年の入院・手術の後にホメオスタシスすべてが狂ってしまい、通院をしていても治らない。
ぼつぼつ覚悟を決めておいたほうが、よいのだろうか。
簡単なメモや写真が楽しみとなる。


ちょっと思いついたことをメモ用紙に書く。
また、いつもデジカメをもっていて、気軽にパチリ。
そんなことでも、後で日々の生活の中の大きな楽しみや思い出になる。

メモがいくつか合わさって、パソコンの中でまとまった文章になる。
デジカメの写真も、いったんすべてをハードディスクに移す。そして、そこで若干の修正。例えば、たてに撮った写真を横向きにする。周りの不要な部分を除くカットやトリミングをする。そんなことをして、アルバムの写真となる。

しかし、写りが失敗をしたもの、あまり意味のないもの、使用済みの写真などはすべて削除をしてしまう。いつまでも残しておくと、後で使用をしたかしないかで、混乱をするからである。

仏教の説話にある「筏」(いかだ)の話をいつも思い出しながら。


意味のないことを続ける意地の愚かさ。


私のホームページがその一つ。最初の仲間たちと始めるときに、つい偉そうな宣言をしてしまったことを後悔する。

今日、たまたま高瀬さんに道で会った。
彼は、パソコンなどをまったくしないが、それでも元気溌剌。頭もしっかりしている。

私は、毎日のようにパソコンで脳に刺激を与えている。しかし、それでも度忘れや勘違いが激しい今日このごろ。いくら刺激を与えても、衰えていくのは仕方ないのかもしれない。

今まで、「継続は力なり」を信奉してきた。それも、幻想なのかもしれないと思ったりもする。
「意地」というのは、ふつう「相手に対する心遣い」や「ものを欲しがる気持ち」である。そして、「意地になる」となると、「状況に逆らって、押し通そうとする気持ち」。さらに「意地を張る」のは、自分の思いを主張しようとすること。
考えてみれば、つまらないことに意地を張るのは愚かしいことらしい。

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