忍者ブログ
rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
ブログ内検索
ご案内


現在、このプログではコメントなどを受け付けていません。
お恥ずかしい個人的な内容が多いからです。それでももしも、ご意見やご質問があればここから願います。


似顔説明

[303]  [304]  [305]  [306]  [307]  [308]  [309]  [310]  [311]  [312]  [313
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コスモスが堤外に咲き、そこは異次元。


異次元とは、大げさに言えばのことである。
また、私だけのことかもしれない。

コスモスは、宇宙花である。
マクロコスモスとミクロコスモスがあるが、私はとくにミクロコスモスについて興味がある。

自分自身が一つのミクロコスモスであって、それ自体をいかに動かしていくかについて、考えなければならない。
しかし、多摩川の堤外に咲き誇っているコスモスを見ると、かなり大きな群生である。

『星の王子さま』のバラが、「自分は一人であって、群生などは考えていない」ことをプティプリンスが知って、後に地球のバラの大群生を見たときに「黙っていたほうがよいだろうなど考えた」ことを、私はそれなりに納得したのである。

PR
青空の中に漂う雲を見ている。


突き抜けるような青空、そんな日が秋になるとある。
私は雲を見ていると、何となく楽しくなる。

雲は、むろん生き物ではない。
しかし、生きているような動きをすることがある。そんな雲を見ていると、想像が限りなく広がる。

「浮き雲」というようなタイトルの小説があるのも、さもありなん。
私は、二葉亭四迷や原田康子の作品を知っているが、他にもかなりあるだろう。インターネットで調べてみれば、そのようなこともわかる。

しかし、私にはそのような必要はない。
私自身の浮き雲で、じゅうぶんだからである。



友からのメールがないと、安否気遣う。


親しい友人からのメールが久しくないと、「どうしたんだろうか?」などと安否を気遣う。
そして、もしかしたら入院をしたんじゃないか、さらに最悪の場合は亡くなったのではないか、などと思ってしまう。
なぜならば、友人のほとんどは還暦をとっくに過ぎた人たちだから。

それにしても、まったく健康な人が少なくなってしまった。
私は、かつては健康に自信があった。しかし、前立腺を切ってからは、どうも調子がよくない。

カテーテルから院内感染をしてしまって、血液中にパラサイトやコメンサルなどが大量に巣くってしまったからだ。
何とかして、早々にそれらを退去させてしまいたい。

いっぽうでは、冗談ではなく友人に、
「私のメールがなくなったら、死んだと思ってくれ」
といつも言うようになった。

肉体は、単に心の乗り物なのか?


魂が生命体で、一種のエネルギーと考える私には、なかなか理解しにくいことである。
だいいち、わざわざ「肉体」と「心」とを分けて考えるのはなぜか。
おそらく、機能の面から説明がしやすいからであろう。心の受容器として、五感があると考えれば、それはそれでわかりやすい。

しかし、「脳」を考えるとわからなくなる。
ディスカバリーチャンネルの「生命誕生」という番組を見たら、「脳は、すでに胎児のときから機能する」という。母親の胎内で、胎児はすでに思考ができるようになっているらしい。
すると、脳は「肉体」なのであろうか。あるいは、「心」なのであろうか。
また、肉体にある千億個もあるニューロンは、何となく「心」の機能を果たしているのではいのか。

肉体を単に「心の乗り物」などと考えるのは、ちょっと早計であろう。
しかし、このようなことを考えている私自身は、ちょっとどころではない大バカものかもしれない。


「無責任ではないか?」とも、先輩は言う。


始めはいきおいこんで作成したホームページだが、訪問者も少なくさっぱり。当初の仲間から、「やっぱり、投げ出したぞ」と言われたくないので、やめるわけにはいかない。

仕方なく、自分自身のノートやメモのような使い方をしている。原稿や思いつきを、そのままアップロードしておいて、インターネット上で推敲をする。それが、もっとも簡単で効率のよいやりかただから。

恥をかくとか、みっともないなどということは、あまり考えていない。そもそも、私が生きていること自体、それがすでに恥ずかしいことだ。

ホームページが大きくなると、ホームページビルダーの中で疑似サイトができない。メモリの容量が、足りなくなるからであろう。そんなために、未完成のままインターネットを利用して、そこを見ながらホームページビルダーで修正をしなければならなくなる。

だから、私の場合はほとんどが結論もないままの中途半端なページ。
しかし、おそらくそのようなことはできなくなるだろう。なぜならば、このままでは、やがて法令が改正されてインターネット上の「未完成な作品」や「破廉恥な行為」、そして「犯罪」などを厳しく統制するであろうから。


切り詰めたたつき(たずき)見直し、乞食寸前。


私は、「吾唯足知」をだいぶ前から実践している。簡単に言ってしまうと、いわゆる「清貧」の生活である。
ときどき、パルテノン多摩の屋上階にあるつくばい風のそのデザインも見に行く。元来は仏典にあった言葉であるが、ものが豊富な現代社会には何となく忘れられていた。

しかし、政府の高官が役職におぼれて賄賂や接待を受けて、最後には失脚をしたりする。少しずつ奈落の底に落ちていくのと、まったく同じである。
いくら一時的には甘い汁を吸っても、自分の退職金で返済するというようなことになっては、愚かであって元も子もない。

なぜ、そんなことになるかというと、現代の「学校教育の歪み」であろう。
ものがあり余って、どちらかというと使い捨ての時代、そんなときにこそ、「吾唯足知」や「清貧の尊さ」を教えないといけない。物が豊かなよりも、心が豊かなほうがよいからである。
歯止めを失って育った人間は、政府の要職につくと貪欲なまでに「たかり」を覚えてしまうのかもしれない。
私は、乞食寸前になっても一向にかまわない。


「若ければなぁ!」などと言う、老人の愚痴。


私の知人に、よく「若ければなぁ!」という人がいる。
愚かしい年寄りの愚痴である。時間というものを誤って考えている思考の誤謬であろう。

私は、いつも横井也有の『嘆老辞』や仙崖の『老人六歌仙』を思い出す。
仙崖の『老人六歌仙』の画賛に、

<しわ(皺)がよる ほくろ(黒子)が出来る 腰曲がる 頭がはげる ひげ白くなる
手は震え 足はよろつく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目はうとくなる
身に添うは 頭巾襟巻(ずきんえりまき) 杖 眼鏡
たんぽ(湯たんぽ) おんじゃく(カイロ) しゅびん(尿瓶) 孫の手

聞きたがる 死にともながる 淋しがる 心がひがむ 欲深くなる
くどくなる 気短かになる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話焼きたがる
またしても 同じ話に 子を誉める 達者自慢に 人は嫌がる>

というのがあった。
これだけ現実を示されると、私は参ってしまう。
あなたは、いかがなものだろうか?


忍者ブログ [PR]