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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ソリティアと将棋・麻雀、ボケないために。


私は、勝負事が嫌いである。
人と争うのはむろんのこと、籤(くじ)・賭(かけ)、競争などもしない。だから、競馬や競輪などもやったことがない。また、宝くじも買わないし、お年玉付き年賀状なども出さない。

ソリティアなどは、ボケ防止よりも運試しにする人がいる。
しかし、私は占いとか占星術などには興味がない。だから、単に老化防止の一環として、楽しむだけである。

ソリティアを3回、将棋を一局、そして麻雀は半チャン、それでやめる。「もう一ちょう、勝負!」などとならないようにする。

そんな意味で、すばらしいゲームである。
いずれも、インターネットから無料で使わしてくれる優れもの。
詳細は、ここ をクリックしてね。
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「群れたがる」習性と、「個になりたがる」あり。


人間には「群れたがる習性」と、その反対に「個になりたがる習性」があるようだ。まったく反対の方向であるのが、何となく不思議でもある。

「群れたがる習性」とは、大きなものに集まりたがる気持である。ふつう、群れていると安心ができると考えるようだ。また、一人では何となく不安な気持になってしまう人が多い。

しかし、反対の「個になりたがる習性」というのも一長一短である。
『徒然草』や『方丈記』の著者たちは、そのことについて見極めていたようだ。
私には、卜部兼好よりも鴨長明のほうが、進んでいると思う。それでも、いずれも徹底していたとは、とても言えないようだ。

とどのつまり、必要に応じて群れ、不必要なときには個になるのがよい。
いくらがんばっても、日本国民であることを止(や)めれない。国籍を変えればよいかというと、そうしても同じことになってしまう。
さらに、人間であることを止めれない。例えば「私は貝になりたい」と思っても、なれるものではない。
そんな中にいるから、心の葛藤があるんだろう。



「豚生姜焼定食」を注文したり。


私は、吉野家の大ファン。
ときどき、「豚生姜焼定食」480円を注文する。むろん、中瓶ビールとともに。

そのときに、ふと思うことがある。
固有名詞であるから、それでよいのであろうが。ちょっと、気にかかる。
最初から正しく読める人が、いるのだろうか。

むろん、「生姜」は「ショウガ」である。古くから、辛みと香気のある地下茎を食用・香辛料にしてきた。薬としても漢方で、生姜(しょうきょう)と言って健胃・咳止めとして用いた。ハジカミとも言う。
しかし、「姜」の寺である。美しい女を想像する人もあろう。そんなために、「豚生」で区切って読んでしまうかもしれない。豚の生肉は、いただけない。

私は、「□肉□食」の□の中に文字を入れる入社試験が、かつてあったことを思い出す。答案の中には「弱肉強食」ではなくて、「焼肉定食」と書いた人がかなりいたそうだ。




アオサギは、霞の中に佇みており。


聖蹟桜ヶ丘駅から上り電車に乗ると、すぐに多摩川の鉄橋を渡る。
そのときに、私はじっと川面を見る。
小雨の降るような日に、アオサギがいることがあるからだ。
以前は、狛江の辺りに多かったアオサギであるが、最近になって百草園から高幡不動辺りの浅川まで、ときには登ってくることがある。

アオサギは、コサギやダイサギなどとは異なって、かなり神経質な鳥らしい。人間がそばに行くと、すぐに飛び立ってしまう。
だから、雨模様の日や霞んでいるときには、安心をするせいだろうか、近くまでくるようだ。鉄橋のすぐ下に、いることもある。

もっとも、彼らは散歩や逍遙をしているわけではない。
各自のテリトリーがあって、小魚を捕っているのである。だから、そのアオサギの回りには、他の鳥がいない。
それが、私には「孤独や孤高を守っている」ようにも、見受けられるのだ。


何となく、病気は自分で作るものかも?


同じ状態に置かれても、病気になる人とそうでない人がいる。
もともと「病気」は、「気が病む」ことかもしれない。

確かに、怪我や外傷も病気であろう。
それらの場合、病院に行って治療を受けるのであるから。

しかし、内臓の病気の場合、かなり気持の持ち方、というより「気」の「持ち方」が影響をするようである。
同じように病原菌にさらされても、感染する人と感染しない人がいるのはなぜだろうか。

本来の身体自体がもっている拮抗力(きっこうりょく)や抵抗力などは、正常に働いている間は問題がない。しかし、ホメオスタシスなどがいったん失調してしまうと、いわゆる「病」の状態になる。
乱暴な言い方をすると、病気は自分で作るものかもしれない。
最近になって、つくづく私はそう思うようになった。
あなたは、どうですか?

人生は無駄多きゆえ、後悔つきぬ。


人生には、何と無駄の多いことだろう。
一人一人がそれぞれに無から始めて、際限のない欲望に支配されながら生きていく。動物や昆虫と比べると、効率が悪く愚かしいことではないか。

いくら可能性が無限だと言っても、それぞれの人間を見ると、互いに似たり寄ったり。なるほど中には、他より優れているものもいるかもしれない。
しかし、優れたと言っても他の人間と比べてのこと。

とどのつまり、最終的には自分自身の問題となる。そして、あまり意味のないことをしていることに気づき、愕然としてしまう。そして、「学問も技術もやめちゃえ」と天台摩訶止觀で言っていると『徒然草』に書いてあったり、蘇軾(そしょく)の「字を識(し)るは、憂患の始め」などという言葉を思い出すと、何となくがっくりしてしまう。

学問をして文字を知ると、いろいろな情報が自分自身に入って、それから悩みが生じる。さらに、パソコンなどを利用すると、ついには情報過多になって疲れてしまう。

むしろ、何も知らないほうが気楽でよいのかもしれない。
裏の裏、奥の奥まで理解できない。


いくら調べても、人知では計り知れないことがあるようだ。
裏の裏や、奥の奥を知ろうとするのは、空しいことであろう。

例えば、養鶏場のニワトリを考えてみるとわかる。
自分たちがニワトリであることは、わかっているだろう。また、何となく自分たちがフライドチキンにされちゃうんじゃないかというような一抹の不安が、彼らの脳裏をよぎるかもしれない。それは、動物のもっている本能であろう。とさつ場に引かれる牛が、しりごみをするという。

学問が進んでも、わからないことがあるにちがいない。ある天文学者は、宇宙の秘密はまだ5パーセントくらいしか解決していないと言う。しかし、私は99.999パーセントが未解決と思う。

それよりも、身近な疑問がある。それは、なぜ自分が人間であるかということ。また、なぜニワトリや牛が、ニワトリや牛に生まれたかということ。
そんなことを考えると、理解できないことが多すぎる。そして、それらの理由はわかる必要がないのかもしれない。
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