rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
リンク集
ブログ内検索
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
及ばれね、心と言葉、塵にも同じ。
うろ覚えであるが、「心もことばも及ばれね」とか「偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」などという言葉を覚えていたので、入院をする前に『平家物語』を読んでみた。そして、さらに『一億人の昭和史』も眺めた。
『平家物語』は、内海弘蔵のものと菊池寛のもの。前者は高校時代に古文の時間でテキストで使った原文、後者は現代語訳である。
『一億人の昭和史』は、分冊を含むと7冊の大作。
退院をしてからは、テレビ255番のヒストリーチャンネルで『映像の世紀』ちゅうのを何本か見た。だいぶ前に、NHKで放映したものである。
読んでいたり見ていると、何ともやりきれない気持ちになる。
すべてが事実を述べたものと仮定してみても、あまりにも意味のないことに人間が固執して、繰り返し同じことを争うからである。
また、宗教についてもコンスタンティヌス帝や聖徳太子のころの事情はともかく、インド独立時のガンジーの悩みなども、他人事(ひとごと)ながら、私も心が痛む。現在の核に関する両国の問題などが、当時からすでに潜在的に内在していたからである。
あっ、どうやら宗教と政治の本質的な問題になりそう。
そこで、この辺でやめる。
うろ覚えであるが、「心もことばも及ばれね」とか「偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ」などという言葉を覚えていたので、入院をする前に『平家物語』を読んでみた。そして、さらに『一億人の昭和史』も眺めた。
『平家物語』は、内海弘蔵のものと菊池寛のもの。前者は高校時代に古文の時間でテキストで使った原文、後者は現代語訳である。
『一億人の昭和史』は、分冊を含むと7冊の大作。
退院をしてからは、テレビ255番のヒストリーチャンネルで『映像の世紀』ちゅうのを何本か見た。だいぶ前に、NHKで放映したものである。
読んでいたり見ていると、何ともやりきれない気持ちになる。
すべてが事実を述べたものと仮定してみても、あまりにも意味のないことに人間が固執して、繰り返し同じことを争うからである。
また、宗教についてもコンスタンティヌス帝や聖徳太子のころの事情はともかく、インド独立時のガンジーの悩みなども、他人事(ひとごと)ながら、私も心が痛む。現在の核に関する両国の問題などが、当時からすでに潜在的に内在していたからである。
あっ、どうやら宗教と政治の本質的な問題になりそう。
そこで、この辺でやめる。
PR
お互いの利権のみにて、動く愚かさ。
まったく、困ったことである。
国の指導者や行政の担当者が、レベルが低く、モラルの欠如していることには、驚き呆れるかぎり。
日本の文部・学校制度に、何か欠如があるのかもしれない。
『父母恩重経』に、
<二歳。懐(ふところ)を離れて、初めて歩く。父にあらざれば、火の身(からだ)を焼くことを知らず。母にあらざれば、刀(はもの)の指を落とすことを知らず。
三歳。乳を離れて、初めて食らう。父にあらざれば、毒の命を落とすことを知らず。母にあらざれば、薬の病(やまい)を救うことを知らず。>
というくだりがある。
基本的なことを必要な時期にマスターしないままに、単に学力だけがあって大きくなっても、まったくダメなのではないか。
単なる欲望に支配されて生きているのは、二歳・三歳児と変わりないのであろう。落ち着いて考えてみれば、「清貧」がいちばん心の安らかな状態であるようだ。
それをなぜ遠ざかる方向に、突き進んで行くのかわからない。
まったく、困ったことである。
国の指導者や行政の担当者が、レベルが低く、モラルの欠如していることには、驚き呆れるかぎり。
日本の文部・学校制度に、何か欠如があるのかもしれない。
『父母恩重経』に、
<二歳。懐(ふところ)を離れて、初めて歩く。父にあらざれば、火の身(からだ)を焼くことを知らず。母にあらざれば、刀(はもの)の指を落とすことを知らず。
三歳。乳を離れて、初めて食らう。父にあらざれば、毒の命を落とすことを知らず。母にあらざれば、薬の病(やまい)を救うことを知らず。>
というくだりがある。
基本的なことを必要な時期にマスターしないままに、単に学力だけがあって大きくなっても、まったくダメなのではないか。
単なる欲望に支配されて生きているのは、二歳・三歳児と変わりないのであろう。落ち着いて考えてみれば、「清貧」がいちばん心の安らかな状態であるようだ。
それをなぜ遠ざかる方向に、突き進んで行くのかわからない。
俯(うつむ)きて歩みたる我には、彼岸花。
小道を俯いて、何となく歩いていたときのこと。
いったい自分の病気は、どうなってしまうのだろうなどと心配事を考えながら。すると、突然にぱっと赤いヒガンバナが路傍に咲いているのが視野に入る。
その瞬間に、何かがひらめいたのだ。
そして、かなり前に、
思案して歩みをるときふと曼珠沙華燃ゆるがごとき赤が目に滲(し)む
というような短歌を作ったのを思い出した。
もしかしたら、稚拙なので学生時代だったかもしれない。
何とも、すごいことではないか。
上の短歌作品の出来が、すごいなどと言っているのではない。そうではなく、条件反射のような早さで、完全に忘れていた記憶の断片を思いつくことだ。それこそ、電光石火のように過去の経験が、頭の中で検索できることがある。
自分自身のことでありながら、人間の脳がもつ不思議さと、さらにはその不気味さに驚いてしまう。
小道を俯いて、何となく歩いていたときのこと。
いったい自分の病気は、どうなってしまうのだろうなどと心配事を考えながら。すると、突然にぱっと赤いヒガンバナが路傍に咲いているのが視野に入る。
その瞬間に、何かがひらめいたのだ。
そして、かなり前に、
思案して歩みをるときふと曼珠沙華燃ゆるがごとき赤が目に滲(し)む
というような短歌を作ったのを思い出した。
もしかしたら、稚拙なので学生時代だったかもしれない。
何とも、すごいことではないか。
上の短歌作品の出来が、すごいなどと言っているのではない。そうではなく、条件反射のような早さで、完全に忘れていた記憶の断片を思いつくことだ。それこそ、電光石火のように過去の経験が、頭の中で検索できることがある。
自分自身のことでありながら、人間の脳がもつ不思議さと、さらにはその不気味さに驚いてしまう。
ヨーロッパアカヤマアリの不思議な社会。
ヨーロッパアカヤマアリは、食料の一部をイモムシとの共生で得ているのだが、無駄な闘争をしないという。
むろん、そのイモムシにクモなどが襲ってきたときなどは、超音波を信号とするイモムシからの要請によって、いっせいに出陣してクモを撃退する。
また、そのコロニーの中では、目立った支配階級がないらしい。
一匹の女王アリから生まれたすべてのアリが、同じ働きをする。とくに、兵隊アリとか働きアリなどというような機能分担をしていない。
当然のことながら、仲間のアリ同士の競争や戦いはなくて、ムダなストレスを避けて、全体として平和に暮らしている。
嘘か本当かわからないが、そんなことを知った。
私は、ファーブルのような昆虫学者ではないので、そんなことはどうでもいい。しかし、昆虫社会のシステムをヒトの社会に取り入れるようにしたら、もう少し好ましい国になるのではないかと考えた。
もしかしたら、人間を昆虫にしてしまうほうがよいかもしれない。
『水棲人』にも、あるように。
ヨーロッパアカヤマアリは、食料の一部をイモムシとの共生で得ているのだが、無駄な闘争をしないという。
むろん、そのイモムシにクモなどが襲ってきたときなどは、超音波を信号とするイモムシからの要請によって、いっせいに出陣してクモを撃退する。
また、そのコロニーの中では、目立った支配階級がないらしい。
一匹の女王アリから生まれたすべてのアリが、同じ働きをする。とくに、兵隊アリとか働きアリなどというような機能分担をしていない。
当然のことながら、仲間のアリ同士の競争や戦いはなくて、ムダなストレスを避けて、全体として平和に暮らしている。
嘘か本当かわからないが、そんなことを知った。
私は、ファーブルのような昆虫学者ではないので、そんなことはどうでもいい。しかし、昆虫社会のシステムをヒトの社会に取り入れるようにしたら、もう少し好ましい国になるのではないかと考えた。
もしかしたら、人間を昆虫にしてしまうほうがよいかもしれない。
『水棲人』にも、あるように。
一つずつ撤退したり、ドメインは今日。
最初に勢い込んで始めたホームページではあったが、訪問者がさっぱり。
つまり、計画したほどの広報結果はなかった。何となく「取らぬ狸の皮算用」とでも言ったところか。そんな次第で、意味のないムダなことをするのが面倒になってしまった。
そこで、いったん整理・縮小をすることにした。
その作業としては、
(1) 5つ以上あったホームページを2つにした。
(2) 2つあったブログを1つにした。
(3) 掲示板は、スパムのメンテナンスが煩わしくなって解約した。
(4) ドメインの解約をした。
などの作業が、ようやく今日(2007年10月23日、火曜日)になってすべて終了した。これらの結果、月々1万円近くの経費節減にもなる。
拡大をするときは、何も知らなかったせいか、「めくら蛇に怖じず」で簡単だった。しかし、いったん大きくした規模を縮小・合理化をするときは大変であることが、よくわかった。NOVAの倒産ではないけれど、……
アレキサンダー大王やナポレオンの場合もそうであったと思うが、『孫子』や『クラウゼビッツ』などにも、撤退が難しいと書いてあった。
残る人生では、あまり自分の力量以上のことはすまい。
最初に勢い込んで始めたホームページではあったが、訪問者がさっぱり。
つまり、計画したほどの広報結果はなかった。何となく「取らぬ狸の皮算用」とでも言ったところか。そんな次第で、意味のないムダなことをするのが面倒になってしまった。
そこで、いったん整理・縮小をすることにした。
その作業としては、
(1) 5つ以上あったホームページを2つにした。
(2) 2つあったブログを1つにした。
(3) 掲示板は、スパムのメンテナンスが煩わしくなって解約した。
(4) ドメインの解約をした。
などの作業が、ようやく今日(2007年10月23日、火曜日)になってすべて終了した。これらの結果、月々1万円近くの経費節減にもなる。
拡大をするときは、何も知らなかったせいか、「めくら蛇に怖じず」で簡単だった。しかし、いったん大きくした規模を縮小・合理化をするときは大変であることが、よくわかった。NOVAの倒産ではないけれど、……
アレキサンダー大王やナポレオンの場合もそうであったと思うが、『孫子』や『クラウゼビッツ』などにも、撤退が難しいと書いてあった。
残る人生では、あまり自分の力量以上のことはすまい。
高齢になるとご注意! 尿路感染。
ふつう、高齢になると免疫力がかなり弱ってきます。
また、腎臓や尿路の病気になりがちです。とくに、尿路感染症が発症しやすいので、注意が必要。男性の場合は、だらしなく不潔になりがちなので。
もしも、尿道カテーテルなどを使っている人がいたら、細心の注意をしなければなりません。なぜならば、とても細菌に感染しやすい状態になっているからです。
しかし、高齢者の場合は尿路感染症になっても、あまり顕著な痛みなどの症状が出ないこともあります。実は、私の場合がそうでした。
実際には、腎臓のネフロンにある糸球体の一部が破壊・剥落して、ボーマン嚢を通過して尿に出てきていたのですが、痛くも痒くもありません。ふつうは気が付かないのでしょうが、私は日ごろから尿を計量カップの採っている習慣の関係で、そのような事態がわかったのです。
高齢になって水分の摂取量が少ないと、不都合なことが増えるでしょう。
とくに、夜間はトイレに起きたくないので水分をひかえます。しかし、実際には水分を多く摂って、ある程度の尿量を確保しなければなりません。
また、尿をすることによって尿路のクリーニングもできるわけですから、チビチビではいけません。洗い流すだけの流量がなければ、感染を阻止できないからです。
ふつう、高齢になると免疫力がかなり弱ってきます。
また、腎臓や尿路の病気になりがちです。とくに、尿路感染症が発症しやすいので、注意が必要。男性の場合は、だらしなく不潔になりがちなので。
もしも、尿道カテーテルなどを使っている人がいたら、細心の注意をしなければなりません。なぜならば、とても細菌に感染しやすい状態になっているからです。
しかし、高齢者の場合は尿路感染症になっても、あまり顕著な痛みなどの症状が出ないこともあります。実は、私の場合がそうでした。
実際には、腎臓のネフロンにある糸球体の一部が破壊・剥落して、ボーマン嚢を通過して尿に出てきていたのですが、痛くも痒くもありません。ふつうは気が付かないのでしょうが、私は日ごろから尿を計量カップの採っている習慣の関係で、そのような事態がわかったのです。
高齢になって水分の摂取量が少ないと、不都合なことが増えるでしょう。
とくに、夜間はトイレに起きたくないので水分をひかえます。しかし、実際には水分を多く摂って、ある程度の尿量を確保しなければなりません。
また、尿をすることによって尿路のクリーニングもできるわけですから、チビチビではいけません。洗い流すだけの流量がなければ、感染を阻止できないからです。
腰痛と膝の痛みは、加齢のためか?
還暦を過ぎたころから、腰痛が出たり、膝が痛む人が多いらしい。
私も、そんなことがよくある。しかし、まだ痛みに耐えられなかったり、歩きにくくなって医者に行くほどのことはない。
腰痛も、膝の痛みも成り行きは、当然なことであろう。
人間の歴史を考えてみるとわかる。
元来、背骨は梁(はり)であった。直立歩行をするようになってから、それが柱(はしら)の役目を担うようになったのである。したがって、どうしてもムリが生じる。
また、食うに追われた時代には、体系は一般にスリムであったろう。
それが、飽食の時代。どうしても、体重が増え気味。そこで、必然的に膝に負担がかかり始める。その結果、歩くのも不自由になる始末。
インシュリンの不足による糖尿病や食べ物の不都合による血圧上昇などは、何となく化学的な症状であるが、腰や膝の問題は物理的な現象のようだ。
そうじゃないだろうか?
還暦を過ぎたころから、腰痛が出たり、膝が痛む人が多いらしい。
私も、そんなことがよくある。しかし、まだ痛みに耐えられなかったり、歩きにくくなって医者に行くほどのことはない。
腰痛も、膝の痛みも成り行きは、当然なことであろう。
人間の歴史を考えてみるとわかる。
元来、背骨は梁(はり)であった。直立歩行をするようになってから、それが柱(はしら)の役目を担うようになったのである。したがって、どうしてもムリが生じる。
また、食うに追われた時代には、体系は一般にスリムであったろう。
それが、飽食の時代。どうしても、体重が増え気味。そこで、必然的に膝に負担がかかり始める。その結果、歩くのも不自由になる始末。
インシュリンの不足による糖尿病や食べ物の不都合による血圧上昇などは、何となく化学的な症状であるが、腰や膝の問題は物理的な現象のようだ。
そうじゃないだろうか?