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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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ほほえみの七柱(ななはしら)あり、有りがたきかな。


何が有りがたいかって?
正直な話。実はだいぶ前に八王子七福神を経巡(へめぐ)って参拝をした。かなりの行程である。夏だったので、かなりバテてしまった。

そんな中に、一つの寺院に七柱すべてがましますところがある。つまり、一ヶ所ですむのだ。かなり、楽チン。疲れないし、また時間もかからない。

それらの中から、まず「ほほえみ七福神」に行ってみた。
京王線の国領駅を降りて、10分ほど歩く。そして、浄土宗・柴崎院・光照寺。
それで、すべての福神さまのお参りをして、終わり。
歩いて、柴崎駅へ出る。そこから聖蹟桜ヶ丘駅まで、電車で帰る。何とも楽で、有りがたいことである。

ほほえみ七福神が必要であれば、ここから見てください。
また、その他の寺院は、ここ
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キリのないことには、あまり深入りしない。


人生には、いろいろとしたいことがある。
また、一方ではムダが非常に多い。
『荘子』に書かれているように、確かに「有限の身体でもって、無限のことがらに立ち向かうのは危うい」ことだろう。

「あれも欲しい、これもしたい!」などと考えるのは、愚かなことかもしれない。キリのないことはほどほどにして、あまり深入りをしないというのも、人生の奥義であるかもしれない。

なぜならば、「人生の目的は何か?」とか「人生とは何か?」ということ自体がわからないのに、その中でもがいたり、あくせくするのは何となく苦し紛れのような感じもする。

さらに、「死んだらどうなるのか?」などを考えると、一生の期間にできることなどは、自己満足にすぎない限られたことであろう。
などと、つい思ったりもする。


いつの日か、老いと衰え、現実になる。


いつの日かなるのならよい。しかし、すでに今日この頃のことなのだ。
急にガクンとくるのが、思ってもいなかった現実。
眠りが浅くなったためか、日中に疲れが出る。パソコンをしていたり、テレビを見ているときも、トロッと眠くなったりする。電車に乗って座ると、寝過ごす。そんなことは、今までになかった。

それと、インスリンの分泌が悪くなったのだろう。食後は、なかなか血糖値が下がらない。それも、ウツラウツラする原因。

何とかしないといけないと思いながら、何ともできない。すでに、身体のバランスが崩れて、ホメオスタシスが正常に機能しなくなっているのかもしれない。

老いと衰えは、紛(まが)う方(かた)ない現実である。
では、安心立命を願うことしかないのか。
デジカメの写真、ほとんどページに入れた。


今まで撮ったデジカメの写真。どこに何があったかを忘れてしまった。見ようとしても、探すのが大変。そこで、整理をしてホームページにアップロード。大きさは、原則として400×300ピクセル。かなり大きくて、重くなる。

しかし、小さい画面ではよくわからない。そして、わからなければ、役に立たないだろう。中には、文字を含む説明文などもあって、とてもその大きさでは読めない。やはり、読めなくては仕方ないので400×300よりも大きくする。

そんなわけで、ますます重いホームページになってくる。
それでも、まだ契約の大きさの60パーセントくらいしか利用していない。何とも有りがたいプロバイダ「ヤフーさまさま」の1ギガバイトである。

これからは、メモとして残してある膨大な文書や断片を整理してアップロードしよう。これは、おそらく今までの文章すべての量くらい入るのではないか。
いきおい、ものすごく重いホームページになってしまう。一つ当たりのページを分割しなければ、……。

いっぱいになってしまうよ! メールボックス。


ここのところ、メールがたくさん来る。
そして、そのほとんどがスパム。次々と削除をしないと、メールボックスがいっぱいになってしまって、それ以上は受信できなくなるだろう。

ちょうど、何日かを留守したときに、郵便受けに新聞やチラシなどがいっぱい入っているのと似ている。それ以上、入りきれなくなっているからだ。

いったい誰が、どのような目的でチラシやメールを届けているのだろうか。むろん、趣味や道楽ではあるまい。
ビジネスの一環として、非合法まがいのことをやっているところもあるようだ。インターネットのいちばんの魅力は、隠れたままできること、そして金がかからないこと。

モラルの向上なくして、科学技術だけが発達した状態では、それが当然なことであろうか。インターネットには、そんな盲点があったようだ。
あるはずのファイルがなくて、探し続ける。


「確かあったはずだ」などと思って、画像ファイルなどを探すことがある。なかなかなくて、いつまでも探し続けることになる。もしかしたら、削除をしてしまったのではないかなどと心配しながら。

その方法はいろいろあるが、一長一短。
ファイル名がわかっていたり、うろ覚えのときはエクスプローラの検索でOK。むろん、ワイルドカードをフル活用する。すると、大概のものはどこにあるかが出てくる。

ホームページビルダーの中でも、探すことができる。
ふつう、そこではすでに文章になったものの語句やシラブルで探す。しかし、ホームページの大きさが600メガバイトくらいになったときから時間がかかって実用的でない。もたもたとハードディスクを読んでいるからである。

すでに、文書がインターネット上にあるときは、もっと簡単。
グーグルやヤフーのウェブ検索で、自分自身のホームページアドレスを指定する。すると、瞬間に出る。キーワードとなる語句は、ほとんど拾っている。
私にとっては、何とも有りがたい話である。


ケラ才の自分自身に嫌気がつのる。


まったくだ。
「けらざい」という言葉がある。何をやってもダメなのである。
それを「オケラの才能」と揶揄する。螻蛄(おけら)のように種々の芸をもっているが、巧みなものは一つもない。

オケラは小さな羽根があって飛べるが、山を越せない。穴を掘れるが、深くまで行けない。鳴くこともできるが、鳥を防御できない。……
もしかしたら、鳴くはなかったかもしれない。
一説によると「飛ぶ」「登る」「潜る」「掘る」「走る」の五つの能力。いずれにしても、それらどれ一つとして卓越したものがない。
つまり、多芸多才でありながら、どれも中途半端であること。あるいは、そのような役に立たない才能。螻蛄芸とでも言うか。

そういえば、『荘子』の中で恵子(けいし)の悪口が出てくる。本を車いっぱいもっているが、役に立たない知識だと言うのだ。
なんとなく、そんなことがある。
ケラ才の自分自身に嫌気がつのる人も多くいることであろう。
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