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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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「犯行に及ぶまで」なる小説を書く。


ある男が、ある犯罪を決意して綿密な計画をたてる。そして、犯行に及ぶのである。私は、そんな短編小説を書こうと思った。

しかし、考えてみれば私は実際にその犯行をした経験がないのである。
そこで、いろいろと考えてみた。
でも、どうしても「主人公の犯罪の心理」や「心の内面の葛藤」がわからない。そんなわけで、作業は進まない。挫折したのである。

『イワン=イリッチの死』という小説がある。
ある男の死ぬまでの心理状態が、恐ろしいほどの克明な描写で書かれている。私は、それを読んだときに「この人は、それまでに死んだ経験がないのに、何ともよく書けているなぁ」と感心した。
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考えてみれば、私も発狂寸前?


ここのところ、急におかしくなって世間を驚かすようなことをする人が増えた。奇怪な行動をしたり、人を殺したりする。すでに、脳が犯されてしまった状態である。

まず考えられるのは、長年にわたる化学薬品の飲用などによる「化学薬品症候群」。人類がその過去の歴史に摂ったことのない物質を多量に食べたり、飲んだりするのだから結果は思わぬことになる。
むろん、実験結果などはない。せいぜいラットの小規模なテスト。人体の場合とは結果が異なるだろう。

つまり、誰もが事件を起こした犯人や当事者になりうるのである。そんなことを考えると、最近になって大声を出したくなるようなことがある。もしかしたら、すでに脳が犯され始めているのかもしれない。
あなたは、どうですか?
何故に襲い来るか? 終末思想。


最近になって、ふと終末思想とでも言えるような内容の考えが、脳裏に思い浮かぶことがある。もしかしたら、自分自身がアウトになりかかっているのかもしれない。

とにかく、私たちが何となく不安感がただよう社会の中に置かれていることがわかる。安定しているように見えるが、実は脆(もろ)くて不安定。確実なように見えるが、実は不確実。
そんな漠然とした不安感である。

ここのところ、やけくそになる人が増えてきているようだ。それらの人は、事件を起こして社会の表面に出てくる。しかし、いつそれが自分の番に回ってこないかというような、曖昧な漠然として不安感をいだく人が、現実に増えてきているのではないか。
1000句目の新句(十九音)になりぬ、続いたもんだ!


この作品で、ちょうど1000句目。よくもまぁ、続いたもんだと思う。
日々の思い付きを、「五・七・七」十九音にまとめて、何とかアップロード。中には、いやほとんどが下らない内容であろう。でも、自分自身にとっては「生きている証明」なのだ。

さらに、「こんなことをして何になる」と言ってしまえば、それまで。
しかし、日記をつけるのと同じで、自分自身がよければそれでよい。むろん、ウェブ公開をしているから、誰でも見れる。見られても、一向にかまわない。とくに、秘匿するようなことはないつもり。

それよりも、「継続は力」なのである。
そんなことがわかれば、それでよい。自己満足かもしれないが、……
ムダ多きインターネット、泥縄みたい。


いつも思うのであるが、何ともムダの多いインターネット社会である。ウイルステーブルなどは、日に数回も追加される。いきおい、大きなファイルになってしまう。フィッシング詐欺検出テーブルなども同じ。

つまり、次々と泥縄の状態なのである。
ある国が、地球を七回半破壊できる核兵器をもったとする。すると、もう一つの国が、負けてならじと八回地球を壊滅できる準備をする。何のことはない、イソップだったかの「蛙の腹自慢」と同じ。

さらに結局は、「猿の惑星」ではないか。いったい何のために何をやっているかが、わからないのである。損失が相手に及ぶと同時に自分にもくるので、つまらないルール違反はやめたほうがよい。プロレスの試合で、救急車が数回来るようなことはない。互いに原則を守っているからだ。
訃報聞き、今日は他人(ひと)の身、明日(あす)はわが身か?


親しかった友人の奥さんから電話がきた。口調ですぐにわかったが、やはり訃報であった。だいぶ前から弱っていたので、とうとうという感じである。

元気で互いに仕事をした日々がなつかしい。考えてみると、夢のようである。いったい、人の死などはいつ来るかわからない。弱っていても、なかなかアウトにならない人もいるからである。

そんなことを考えると、自分自身がいつアウトになるかわからない。つまり、大丈夫だという自信が、まったくないのである。ここのところ、疲れがたまって身体がだるい。また、記憶力も急速に薄れていくようだ。度忘れや失念が、多くなったのも事実。

念仏などを唱える時期に、私もなったのであろうか。
作品を論理で見ずに、経験で見る。


まったく、その通りです。「論理」などは、まったく浅いものかもしれません。私は、さらに「直感」で見なければいけないと考えます。

実は、上のテーマはアガサ=クリスティの作品中でエルキュール=ポワロが言った会話です。『雲をつかむ死』(1992年イギリス)という映画の中で、ポワロがシュールレアリズムの美術館で、スチュワーデスにアドバイスした言葉、

<彼らの作品は、論理で見てはいけません。経験で見るのです。>

というくだり。
彼女が絵を見て、<よくわからない。>とつぶやいたときに、即座にポワロが言いました。私は、「なるほど」とうなずき、さらに作品だけでなくすべての対象にも、そう言えるのではないかと考えたのです。
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