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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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秘書さんの梅酒おいしく、なつかしき味。


妻が働いている会社の秘書さんが梅酒をくださった。その方の郷里のお母さまが作られたものという。さっそく、私もご相伴(しょうばん)。

とても丸みがあって、なつかしい味。このような昔風の素晴らしい梅酒は久しぶりである。私が幼いころ、母が作ってくれたことを思い出す。梅干や梅酒を作る手伝いをして、できるのが楽しみであった。

ここのところ、食品の味がすっかり変ってしまった。工業化をしているためであろうか、化学薬品などをふんだんに入れる。その結果、自然の味というか、風味が損なわれてしまった。

そして、化学薬品症候群などがぼつぼつ問題化してきたようだ。
なるべく自然の形で作られたものを食べたり飲んだりしたい。
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極端に言えば、自分のことは二の次。


いったい人生の目的とは何だろうか?
「オレがオレが」とか「金さえ入れば、それでよいのだ」などと考えがちである。しかし、私はおそらく常不軽の生まれ変わりであるかもしれないので、極端に言ってしまえば、自分自身のことは二の次で、相手のメリットや成功を考えなければならない。

そんなことで、それ自体が人生の目的であるから、常に相手の立場になって考えたり、全体の調和のもとに生きなければ落ち着かないのである。

本当は若いころからそうでありたかったのだが、気付いたのがおそかった。還暦を過ぎたころに、ようやく信念が深まった次第。そして、それを実践していこうと遅蒔きながら決心をした。
つまり、自分のことは二の次にするということである。それぞれは異なるが社会をよくするために、そういうことは誰にでもあるのではないか。

デジャビュとも似たようなこと、幾たびもあり。


「デジャビュ」は「既視感」とも言って、それまでに経験をしたことがないことをどこかで経験したことがあるように感じることをいう。
『徒然草』第七十一段の後半に、

<またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。>

というのがある。
見たことばかりか、感じたことも含まれている。つまり、香りや感覚なども含まれるのだ。私は、その他に「以前これを調べた」「かつて、そのことを考えた」というようなことが多い。
もしかしたら、それを前生で実際に体験をしているのかもしれない。
「これでもか?」「これでもまだか?」では、キリがない。


人間の欲望は、際限がないようである。
ほどほどにすればいいのであるが、いきつくところまで行ってしまう。『猿の惑星』ではないが、個人の場合も社会全体の場合も、最終的には同じような結末を迎(むか)えるだろう。

むろん、その恩恵をこうむるものもある。最近技術を駆使した家電製品などがそれらだ。戦前のことを考えると、まったく夢のようなありがたい文化的な生活環境になったものだと、つくづく思う。

いっぽう、法律などは複雑になるばかり。次々と新しい法律ができて、国会などはいつも大わらわ。聖徳太子の時代と比べると、かなり膨大な法律があるのではないか。何となく「泥縄方式」の感じがしないでもない。
いかがなものだろうか。

情報が氾濫の中、さらに追加を?


インターネット上の情報は、まさしく膨大な量。必要・貴重なデータのほかにも無意味や有害、いかがわしいデータなどを含めると、もはや天文学的な数であろう。

そんな中で、プログなどを見ていると1秒に1つくらいのテンポでアップデートされる。プロバイダは一つでなく、かなりあるから全体では何ともすごい情報増加になる。

一人ひとりはせっせと作っている。しかし、もはや誰も他人のまで見る余裕がなくなってしまったみたい。
私のように、自分自身のために作っているのならともかく、この情報過多時代にホームページやプログは広報効果が少なくなってしまったようだ。そして、郵便受けに入っているチラシなどと何となく同じ状態になってしまったのではないか。
フロストは、「仕事が支え、それがオレだ」と。


『フロスト警部』#11「追いつめられた男」(1995年イギリス)をたまたま見ていたら、同性愛の若い女を刺した中年の美しい女が取調べ室で、ヒステリックにフロストに言った。

<男は得よね。老いても失うものがない。>

フロスト警部 <……>
つまり、黙っていて何も答えないのである。もしかしたら、答えられなかったのかもしれない。

別な若い女にののしられて、フロストは答える。

<仕事が支えなんだ。それがオレだ!>
つきつめて言ってしまえば、脳の幻影。


ああでもない、こうでもないなどと、迷ったり考えたりする。しかし、そのような考えは、つきつめて言ってしまえば、一種の脳のもつ幻影にすぎないのではないか。「人生の目的」や「死後の世界」などについても。

つまり、その思考に振り回されてしまうのである。欲望には限りがないということ自体が不自然であるということを忘れてしまうのもそうだ。

何のために何をしているかが、わからなくなってしまった現代。
例えば、生きるために食べるのであるが、それが食べるために生きているようになってしまう。金は生きるために必要であるが、金のために生きているのではない。

本末転倒なことが、何となく常識になってしまったのは、脳がもつ幻影によるものだろうか。


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