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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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老いてから学ぶ気持ちが、あれば青年。


いつまでたっても、学ぶ気持ちがある。老いて、気力が失われかかっても。
素晴らしいことである。もしも、そうであれば若々しい証拠。
サムエル=ウルマンの『青春』の詩のように。

なぜならば、ふつうインプットはアウトプットに備えるのが原則。単なるガメクリや知識欲というのでは、何となく悪趣味の類(たぐい)。

不要なものが多すぎると、全体が不透明になってしまう。
自分なりに知識を整理して、アウトプットできるようにしておくのが、脳の若さを保つための秘訣であろう。

仏教の修行者の持ち物、イエス=キリストが言った旅に出るときの所持品、それらは必要な最小限のものであろう。つまり、多くを持っているほうが好ましいなどとは、決して言っていない。


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多くある未処理事項を諦めるとき。


あれもしたい、これもしたいと考えたことが、今までに多くある。しかし、残る人生で、そんなに多くのことはできないだろう。いずれにしても、ぼつぼつ取捨選択をしなければならない時期になった。

つまり、さし当り生活に必要でないことは、諦めなければならない。
すると、残ったものは何であろう。生活をしていく上で、それがどうしても必要であるというものは。

今までもそうであったが、仕事といっても食うためにした場合が多い。また、打ち込んでしたことと言っても自己満足、悪く言えば自己欺瞞かもしれない。

考えてみると、心豊かに生きていくためにすることは、あまり多くないことがわかる。少なくとも、私の場合は。
ほどほどにしてはいけない! 知的空間。


自分自身の知的空間を構築するときに、ほどほどにしてはいけない。無限と言ってもよいほど広がっている自分の宇宙、つまり知的空間があるからだ。

その中には、小さな発見や小さな楽しみが無数にある。しかしそんなことをつい見逃してしまいがち。そして愚かにも目は、自分自身の外に向いてしまう。

確かに素晴らしい文学や芸術などはある。しかし、自分がその中に入れなかったら意味がなかろう。「猫に小判」や「豚に真珠」となってしまう。宗教などにおいてもしかり。

『正法眼蔵』に「法華、転法華」というのがあるが、その辺の事情を言っているのではないだろうか。




ただ今が、「一期一会」と思い知るべき。


「また今度しよう」とか「次の機会に」などと言ってはいけないらしい。そのときが、一期一会であるからだ。

もともと、「一期一会」(いちごいちえ)は茶の湯が「一期(いっき)に一度の会」であったことから起こったらしい。つまり、年一回か四回か私は知らないが、それでも「一生に一度」であるという思いで、その都度主人と客は真剣に対話を行うべきことを説いた。

後にそのことから転じて、「一生に一度しかない出会い」や「一生に一度だけ」であることを言うようになった。
私は、「また今度にしよう」とか「次の機会に」ということ自体、それも一期一会であると思うのだが、……。
水母(くらげ)には、脳がなくても目があるという。


ふつう、情報判断は五感をもとにして、脳が行っている。
水母(くらげ)には、その脳がないらしい。しかし、目が六つあるものがいる。越前くらげである。

どのようにして、目で捉えた外部の情報を処理しているのだろうか。
すでに、目に脳の機能が備わっているのではないか。したがって、くらげの場合は、別に脳という器官を必要としなかったのではないか。

人間などよりも、ずっと長い期間を生存してきた生物であるから、それはそれなりに理由があるのであろう。
私は学問とは別に感覚で、人間の脳という器官について、何となく異常な感じを受ける。また、さらに不気味さまで感じるのであるが、どうしたものだろう。
間違っているかもしれぬ、死後の概念。


死んだらすべてが終わりだという。確かに、そのとおりかもしれない。
しかし、私は死後の概念いついて別な考え方をしている。

むろん肉体は焼かれて、なくなってしまう。脳も灰になってしまうから、もはや生前のような機能はしないだろう。
しかし、意識が残るような気がする。それは、死後の世界とか丹波哲郎さんが言うような大霊界などとはまったく違って、単に感覚だけの空間ではないだろうか。意識というかこころというか、知覚の一種である感覚なのである。

その感覚は、電磁波やプラズマのようなものであって、空間を漂うことができる。つまり、物質ではない。それは感じるものであって、古くから寺や神社などがあるのもうなずける。こころが脳にあるというのは、もしかしたら間違っているかもしれない。と、私は思う。
少しずつ直していこう、間違った箇所。


間違った箇所を直すのもメンテナンスの一つ。どんどんと作るばかりが能じゃない。したがって、前に作った箇所を見直すのだが。

すると、どうであろう。自分自身で考えたことが、今になってみると恥ずかしいほどの内容である。つまり、自分自身が見たくないと思うほど、お粗末な論理が多い。

そんなわけで、つい見直したくなくなる。
さらに、すべてを削除したい衝動に駆られることもある。しかし、必死になってその誘惑に打ち勝つ。そんなことをすれば、自分自身の一生がムダであったことを自分自身で証明することになるからである。

間違った箇所は、ムリをしないで少しずつ直していこう。

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