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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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地図を見る楽しみもあり、居ながらにして。


身体、とくに足が衰えてくると、あまり出歩くことができなくなるだろう。
私はまだ、それほどではなく、何とかあちこちに行けるので幸福である。

しかし、何らかの理由で外出が不自由になったら、地図を見て楽しむのがよいかもしれない。かつて行ったところであれば、居ながらにして楽しい時間が過ごせるのではないだろうか。

そして、それは一つの知的空間と言ってよいだろう。
例えば、絵に描いた餅は食べれないが、過去に行った場所の写真は思い出せる。むろん、すでに忘れてしまったり、現状が変わってしまっているかもしれない。それでも、それなりに想像力をかきたてる。
つまり、居ながらにして一つの楽しい空間ができるのである。
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プチさん(プティ散策)は身近で楽し、晴れた日によし。


還暦を過ぎたころから、運動不足気味になるという。そこで、身近な解消法としてプチさん(プティ散策)をしよう。
とくに、晴れた日にはもってこい。

行き先は、どこでもよい。しかし、あまり遠いところはダメ。なぜならば、事故が起こりやすくなるからだ。
私は、駅の周辺で閑静なところに行く。例えば、神社仏閣。公園。博物館・美術館など。

デジカメをもっていって、いろいろなものを写してくる。そして、それを帰ってから編集。数が多いので、どこで撮った写真かを忘れてしまうこともある。
それでも、そんなことをしていると楽しく、時間があっという間に過ぎてしまう。

コーネルの箱、グールドの歌、似たイメージあり。


ジョゼフ=コーネル(1903~1972)は「箱のアーティスト」。シュルレアリスム芸術に影響を受けたあと、「箱」を生涯にわたって作り続けた。両手で抱えられる大きさの箱の中に、品々を置いた作品。それらは自分自身の宝箱であり、自分の世界観を構築する場でもあった。

グレン=グールド(1932~1982)は、カナダの音楽家。バッハの演奏においては著名。1964年のリサイタルを最後に公開コンサート活動から引退。それから没年まで、レコーディングやラジオ・テレビなどのメディアを音楽活動の場とした。録音された作品の中にも、掛け声や鼻歌が入っている。50歳の若さで脳卒中で倒れ、一週間後に他界。

いずれも自分自身が孤独に世界に入って、自分自身を見つめている感じ。私も、才能はないものの二人のようにありたい、と思っているのだが、……
ふと思うこと、ことごとくメモにしておく。


ふと思いついたことをメモに残しておくことは、後で考えるために必要である。なぜならば日にちが経つと、忘れてしまって内容を思い出せないことが多い。

いったんメモにしてしまうと、それを資料にして何らかの作品ができるであろう。つまり、メモは記憶の断片として、そのままモチーフになるのだ。
むろん、無意味な内容のものもある。また、後になると何のことかわからないような記録もある。そのようなときは、そこで削除をすればよい。

言葉を使うこと自体、老化予防の効果があると思う。つまり、言葉は自分自身に対する対話を実現できる。師彦(しげん)和尚の自分自身に「主人公!」と呼びかける独り言は、そのよい例であろう。
 いつまでも若々しくあるためには、ささいなことでも文章にする習慣を付けておくことが、必要なのではないだろうか。
目的をとくに決めない気軽な散歩。


かなりきついスケジュールであったり、予定をびっしり組むのは、高齢になると苦手。途中で体調が悪くなったり、膝が痛くなったりして、ときには事前の計画を守れないときがあるからだ。

そんなためにプチさん(プティ散策)は、目的を厳密には定めない。まぁ、言ってみればブラブラと気分によって歩くのである。そのように、目的を決めないということは、気楽でもあり、気軽でもあろう。

何事も、あまり緊張してはいけない。若いときは、経済社会の中にいるので自分勝手なことができない。しかし、年金生活者になったら意のまま、気分のままができる。

そんな意味で、一人で歩くのが気疲れをしなくていいと私は思う。
ダイアナやバタフライなど、言葉の響き?


ダイアナという王妃がいた。写真で見たかぎりでは、清楚で美しい人だったと思う。
しかし、言葉の響きとしてはどうであろうか。ダイアナ妃を知らない人は、何を想像するか。何となく文字変換をすると出てくる「大穴」という語から、変な想像をしてしまうかもしれない。

また、マダム・バタフライつまり蝶々夫人を知らない人は、悲劇の主人公である薄幸の女性を想像しないで、何となく脂ぎった感じの女を考えるかもしれない。それは「バタ」と「フライ」があるからだろう。
さらに、もっとひどいのはストリップガールの前を隠す布を想像するだろう。

言葉の響きには、不思議なものがある。
人生の意義を考えてみた時期あり。


若いころは、真剣に「人生の意義」などを考えてみた時期もあった。いったい何のために生まれてきて、何をしたらいいのだろうか。
また、いったいどこから生まれてきて、どこへ行こうとしているのだろうか。さらに、死んだ後は……。

しかし、考えてみると人生の目的は単に一つ。それは、子孫を残すことである。それに付帯することは多くあるが、動物であるかぎり子孫を残せば、それでよいのだろう。

健康であるとか、老化予防をするとか、それも目的のように思うが、実際には大きな目的のための手段のような気もする。
人間の発達した脳がもたらす幻影と寿命が大幅に伸びたことから、人生の意義が哲学的になってしまったのかもしれない。
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