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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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いっさいが意味のないこと? ムダかもしれぬ。


ふと、妙なことを考えた。
人間のすることなど、いっさいは意味のないことではないかという、何となく心を過(よ)ぎるはっきりとしない不安感。
そしてそれは、脳という器官のもたらした幻影なのではないかということ。

つまり、誰もが幼少時からの学習や教育によって、必然のごとくつちかわれた価値観。それによって、あたかも馬が御者によって操られて走るように人馬一体となる。そして、何としてもレースに勝たなくてはならないと、がむしゃらに走るのである。

しかし、他の馬も他の脳に操られて同じことをしている。
馬自体にとっては、馬券を買った観客ではないので、自分自身がそいう状態におかれていても、あまり意味のないことかもしれない。
てなことを考えること自体が、もしかしたら意味のないことかもしれない。
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いつまでも地図眺めおり、スクロールして。


最近の地図は、ドラッグして周辺地域が次々と見れる。また、グーグルやヤフーの地図は、航空写真も装備している。いつでも切り替えることができるので便利。そんなわけで、いつまでも飽きずに楽しめる。
むろん、縮尺も自在。距離の測定ツールもある。
まったく、至れりつくせりである。さらに、すばらしいことはその費用が必要でないこと。

以前は地図や辞書などは有料のソフトを使ったものだが、最近は地図のみか、辞書も簡単に利用できる。辞書でわからない言葉でも、ウェブ上で検索をすると、たいていヒントになるようなことがある。まさに、百科事典や万巻(ばんかん)の書をもっているのと同じ。

まったく、素晴らしい時代で、ありがたいことである。
プチさん(プティ散策)は、老化予防が主な目的。


プチさん(プティ散策)の主目的は、老化予防である。したがって、とくにその他に目的がなくてもよい。いくら運動不足の解消と言っても、スポーツクラブや自宅でするランニングマシンでは何となく飽きてしまう。

道を歩くことによって、注意が環境や景色に向くだろう。だから、単にトレーニングマシンによる運動よりも、楽しく時間が過ぎる。すでに歩いたところでも、新しい発見や再発見もあろう。

そして、体力的にムリのない範囲で行えるから、激しい疲労感などもない。帰ってから、グーグルの地図で歩いたところを見直してみる。また、ときには歩行距離などを計ってみるのもよいだろう。

そんな楽しみが、そのまま老化予防になるのでありがたい。


いつの間にか、古来稀(こらいまれ)になっちゃった私。


間もなく、古希(こき)である。考えてみれば、よくここまで生きられたものだ。人生の持ち時間も、残り少なくなってしまった。それでも、日々元気に何事もなく過ごせるので、つくづくありがたいと思う。

晴れている日は、小さい散歩をする。電車に乗ってどこかの駅で降り、その周辺をぶらぶら歩く。とくに目的はない。神社や仏閣を回って、参拝をする。公園や名所があったら寄る。
そうかと言って、信心が深いわけではない。また、そのご利益(りやく)を求めているのでもない。つまり、足が萎(な)えないため。何とか歩けるうちは、少しでも歩く。

そのためには、ちょっと見知らぬ場所のほうがよい。興味をもって、いわゆる小さな知的探検ができるからだ。「鬼のいぬ間(ま)の洗濯」ではないが何とか歩けて、目もしっかりしている間の習慣なのである。
在るものを上手に利用する生活を。


「あれも欲しい、これも欲しい」などと言ったら、それこそキリがない。
そこで、もっているものを上手に利用することを考えよう。また、いわゆる廃物などを再利用することなども工夫する。

そんなことも実際にやってみると、身近な喜びとなってくるから不思議。
『荘子』に「有限の身でもって、無限のことを追いかけると危うい。」というような記述があった。

現代は、物が余っているような有りがたい社会である。考えてみると、そのような時代はあまりないのではないか。言葉通り「有り難い」のである。

また、仏教や禅で言う「吾唯足るを知る」ということは、ギリシャ皇帝マルクス=アウレリウスほど偉大な人も書き残しているので、もしかしたら人生の秘訣なのかもしれない。
一生は、すべてのことが一期一会か?


何となく、日々同じことを繰り返しているような気もする。
『伝道の書』ではないが、日はまた昇るのである。基本的なことは、何もかも反復かもしれない。そもそも、私たちの身体、例えば心臓や肺なども同じことの繰り返しのように思う。
しかし、その反面ではことごとく新しく違って感じることもある。基本的には同じであっても、一つ一つは新たなのかもしれない。

「一期一会」(いちごいちえ)という言葉がある。
茶の湯の「一期に、一度の会」からきたらしい。つまり、茶会では「これが一生に一度だという思いで、主客とも心から真剣に行わなければならない」と説くという。

そして、そこから転じて「一生に一度しかない出会い」すなわち「これは、一生に一度かぎり」と考えることらしい。


眠りと死、似た概念と気付き始める。


ここのところ眠りと死とが、かなり似た概念でないかと気付き始めました。よく、死のことを「永遠の眠り」などというのも、何となくわかったつもりです。
なぜならば、「生」と「死」について私は、まったく「新しい考え方」をするようになったからなのです。

つまり、生きていても死んでいる場合があるし、死んでしまっても生きている場合があるからです。いったい何のことかと思われますが、細胞やミトコンドリアの活動、そして心臓や肺、さらに脳の機能、そのようなことは単に物理的なことにすぎないからです。

誤解があるかとも思われます。改めて詳細を述べる予定です。
しかしここでは、それは学問ではなく一種の考え方、すなわちあたかも「信仰もどき」のこととでもしておきましょう。

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