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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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自(おの)ずから、求められないことを続ける。


誰からも求められたことではないのに、意味のないことをせっせと続ける。そんな日々でも、いいではないか。

文学にしたって、美術や音楽などの分野でも、プロは自分の中にあるものが次々と自ずと出てくるのであろう。
しかし、私は文学や美術、そして音楽など、いわゆる芸術には疎(うと)い。残念ながら、とりわけ感性があるわけではない。だから、出てこない。

私は、「健康」や「老化予防」、そして「安心立命」のために、文学らしきこと、美術もどきのこと、そして音楽まがいのこと、そんなことをやってみた。そして、それは結構それなりに楽しい経験になった。
言うなれば、自分自身が必要だったからしたことで、求められなくてもよいのである。
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だらだらといつまでもする癖、ほどほどに。


ソリティア(トランプ一人占い)などをすると、なかなか上がれない。
そんなときに、私は三回でやめる。一回するごとに用意したチップ(小片)を除いていって、それがなくなったら潔(いさぎよ)くやめる。
うまくいかなくても、そこで「もう一回」などとは言わないようにする。
そうすると、だらだらと際限がなくなってしまうからだ。

もしかしたら、人生も同じかもしれない。
「姥捨て山」や深沢七郎の『楢山節考』ではないが、不要になったものを捨ててしまうほど思い切った時代も過去にあったのだろう。貧しかったのかもしれない。インドの『ジャータカ』などにも、同様な話がある。

もっとすごいのは、楳図かずおの『イアラ』に出てくる女性を育てた老婆。自分で噴火口に登って行って、飛び降りてしまう。その『イアラ』全5巻から、私は多くを学んだ。
あまりにも「百舌の速贄」、多くはないか?


人生において、次々に新しいことをする。そして、前にやったことをそのまま放置してしまう。「継続は力なり」などとは、まったく考えない。つまり、「百舌の速贄」(もずのはやにえ)である。
しかし、心臓や肺の機能などのことを考えるまでもなく、百万陀羅尼ではないが反復・継続が大切なのではないか。
宮本武蔵が、

<千日の練習を「鍛」とし、百日の反復を「錬」と言おう。>

と言ったことなども印象的。さらに、

<自分の考えでしたことに関しては、後で悔やまないようにすべきだ。>

とも言っている。
私も、まったくその通りだと思う。
オシッコとウンコをする場、ないのが不思議。


テレビドラマや小説などに、飲み物を飲んだり、食事をするシーンがしばしば出てくる。しかし、その結果であるオシッコとウンコの場は、非常に少ない。オシッコやウンコは、生理的にも大切な行動であるが、なぜか忌諱したために表面には出てこない。何となく、隠れてすることのようである。

そういう意味では、セックスと似ているのかもしれない。
しかし、セックスの場はあからさまに描写をしないまでも、歌舞伎や映画にも多くある。日本語では「濡れ場」などと言う。
また、太宰治の『斜陽』などには最後の貴族であった母が、庭の草陰から立ち上がって「いま何をしていたか」を私(主人公の語り手)に聞くくだりがある。しかし、具体的な行為の記述はなかったと思う。

ウンコはともかく、オシッコを汚いとする考えは間違っているのではないか。
「記憶帖」「生きる証明」、日々の方便(たつき)に!


「記憶帖」は、三木アヤ先生の歌集にあった名前。
「生きる証明」は、宮柊二先生が言っておられた言葉。
「方便」(たつき)は、「たずき」とも言って、「生活の手段など、つまり生計」のこと。そこに、私は「記憶帖」や「生きている証明」を取り入れたり、またその場にしてしまう。

そこは、「事をなすためのよりどころ」自体であるからだ。
さらに、「様子(ようす)や状態などを知るためのきっかけ」でもある。

古くから言われた言葉で、『万葉集』(四〇七八〉にも

<言ふすべのたつきもなきは 我が身なりけり>

とある。
清貧の日々の方便(たつき)に幸せがあり。


人生も終わりに近くなって、清貧の中には心の安らぎがあることがわかった。したがって、方便(たつき)は必要最小限にしたい。
方便(たつき)は「たずき」「たづき」とも読み、もともと手付き(たつき)の意味。つまり、生活の手段や生計のことである。

さらに、何かをするためのもとになることを言う。つまり、様子(ようす)、模様(もよう)、状態など。

『万葉集』に、

<言ふすべの方便もなきは 我が身なりけり>(四〇七八)

とある。
あくせくと何を求めて日々を過ごすか?


いつも不思議に思うことである。
いったい何を求めて、自分は生きているのであろうか。

あくせくと追われるような気持ちがするのはなぜか。
それは、一種の脅迫概念。教育によってつちかわれた一種の考え方にすぎない。むろん、その脅迫概念は人間の本能でもあろう。

しかし、それを煽(あお)って互いに競争をさせるところが、何とも不自然でもある。ヨーロッパでは中世の「宗教」による支配から、近世になって「教育・学問」などによる支配に移行したことが明白である。
特権階級のマインドコントロールによって、形成されている社会構造が何となく見えてくる。
あたかも、家畜が牧場主に飼われているような。
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