rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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堤防の散歩を工夫、バック・目つぶり。
晴れた日には、多摩川の堤防を散歩することが多い。
まず大栗川に沿って、多摩川に合流する小さな公園まで行く。そして、そこから多摩川の右岸沿いに聖蹟桜ヶ丘駅まで堤防上を歩く。
平日ならば、ほとんど人が歩いていない。
そこで、まずバックして歩く。つまり、ボートを漕ぐときのように、後ろを見ながらまっすぐに進む。ちょっと平衡感覚が違ってくるが、健康によいらしい。
次に、前向きで眼をつぶって歩く。曲がってしまうと、左右の草が生えているところに入るので、すぐ気付く。やってみると、目を閉じているとどうしても曲がってしまう。
なお、川に沿って歩くときは上流に向かうときよりも、下流に向かうときのほうが楽である。歩く距離が長いときは、疲れにも関係をしてくるようだ。
晴れた日には、多摩川の堤防を散歩することが多い。
まず大栗川に沿って、多摩川に合流する小さな公園まで行く。そして、そこから多摩川の右岸沿いに聖蹟桜ヶ丘駅まで堤防上を歩く。
平日ならば、ほとんど人が歩いていない。
そこで、まずバックして歩く。つまり、ボートを漕ぐときのように、後ろを見ながらまっすぐに進む。ちょっと平衡感覚が違ってくるが、健康によいらしい。
次に、前向きで眼をつぶって歩く。曲がってしまうと、左右の草が生えているところに入るので、すぐ気付く。やってみると、目を閉じているとどうしても曲がってしまう。
なお、川に沿って歩くときは上流に向かうときよりも、下流に向かうときのほうが楽である。歩く距離が長いときは、疲れにも関係をしてくるようだ。
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ハ・メ・マラを大事に使い、古希まで元気!
で、ありたいと思うが、ダメかもしれない。
高齢になると、どうしてもダメになるのが歯と目。そして、魔羅。
魔羅と言っても、還暦を過ぎたらセックスのことではない。魔羅は、男ならばいちばんやられやすいところ。前立腺肥大症、そして前立腺ガン、現代の食生活ならば、それは当然の成り行きだから。
また、新しく病名が付けられた「過活動膀胱」の人も多い。つまり、オシッコが近いのである。頻尿という言葉があるが、何回もトイレに行く。膀胱の容量が次第に小さくなってしまう病気である。
目も白内障・緑内障、そして網膜剥離などになりやすい。とくにパソコンをすると、ドライアイから悪化するので注意が必要。歯は、永久歯が残っている間、荼毘に付されるまでずっと歯周菌との戦いである。
皆さんも、お大事に。
で、ありたいと思うが、ダメかもしれない。
高齢になると、どうしてもダメになるのが歯と目。そして、魔羅。
魔羅と言っても、還暦を過ぎたらセックスのことではない。魔羅は、男ならばいちばんやられやすいところ。前立腺肥大症、そして前立腺ガン、現代の食生活ならば、それは当然の成り行きだから。
また、新しく病名が付けられた「過活動膀胱」の人も多い。つまり、オシッコが近いのである。頻尿という言葉があるが、何回もトイレに行く。膀胱の容量が次第に小さくなってしまう病気である。
目も白内障・緑内障、そして網膜剥離などになりやすい。とくにパソコンをすると、ドライアイから悪化するので注意が必要。歯は、永久歯が残っている間、荼毘に付されるまでずっと歯周菌との戦いである。
皆さんも、お大事に。
日々アロエ、漢方習い薬用酒など。
化学製品である薬は、劇的に効くほど効果があるだろう。しかし、副作用があることも事実。したがって、長期間の治療には用いないほうがよいと思う。
また、しばらく用いると効果が弱まってしまうかもしれない。
そこで、長期的に患っている症状には、食べ物で治療をするのがよいのではないか。しかし、いわゆる食材のほかに、アロエ、ニンニクなども用いる。つまり、古くから漢方にあるものも利用する。
それらは単独に用いるのではなく、日常の食事と合わせて摂取する。
さらに、薬用酒なども大いに結構。そんな方法を心がけて、何とか日々の健康を保持したい。それでも具合が悪くなったら、病院に行って処置をしてもらったり、薬を処方してもらえばよい。
化学製品である薬は、劇的に効くほど効果があるだろう。しかし、副作用があることも事実。したがって、長期間の治療には用いないほうがよいと思う。
また、しばらく用いると効果が弱まってしまうかもしれない。
そこで、長期的に患っている症状には、食べ物で治療をするのがよいのではないか。しかし、いわゆる食材のほかに、アロエ、ニンニクなども用いる。つまり、古くから漢方にあるものも利用する。
それらは単独に用いるのではなく、日常の食事と合わせて摂取する。
さらに、薬用酒なども大いに結構。そんな方法を心がけて、何とか日々の健康を保持したい。それでも具合が悪くなったら、病院に行って処置をしてもらったり、薬を処方してもらえばよい。
使徒パウロ、生誕の年2000年前。
今年は、「パウロ年」。
キリスト教会、例えばカトリック(カソリック)ではパウロ年としての多くの行事があるらしい。
新約聖書の「使徒行伝」や一連のパウロの手紙から、パウロの人柄が何となくわかる。私は、パウロが真面目な素晴らしい人だったと思う。二つの「ティモテオ(テモテ)への手紙」などを読むと、デリケートな性格だったことがわかる。
もっとも、太宰治などはパウロを高くは評価していない。いろいろな人のいろいろな見方があるのは当然。
私は、パウロのサウロからの転向がすごいと思う。そして、転向後の精力的な活動も素晴らしいと思う。
最近になって、生きているのではなく生かされていると思うようになった。
今年は、「パウロ年」。
キリスト教会、例えばカトリック(カソリック)ではパウロ年としての多くの行事があるらしい。
新約聖書の「使徒行伝」や一連のパウロの手紙から、パウロの人柄が何となくわかる。私は、パウロが真面目な素晴らしい人だったと思う。二つの「ティモテオ(テモテ)への手紙」などを読むと、デリケートな性格だったことがわかる。
もっとも、太宰治などはパウロを高くは評価していない。いろいろな人のいろいろな見方があるのは当然。
私は、パウロのサウロからの転向がすごいと思う。そして、転向後の精力的な活動も素晴らしいと思う。
最近になって、生きているのではなく生かされていると思うようになった。
カンパネラ、やさしく弾ける工夫をしたり。
パガニーニのヴァイオリン協奏曲からリストが編曲をした「ラ・カンパネラ」は、超絶技巧の曲といってもよいだろう。よほど熟練をしたピアニストでなくては、満足に弾けない。
まして初心者には、ちょっとムリ。
そこで、バイエルとブルグミューラの中間でも弾けるように編曲をしてみた。鍵盤を左右の指で叩くので、小さい指でも弾ける。「猫踏んじゃった」ではないが、左右交互に弾くのは何となく簡単である。
『青空のホームページ』から、簡単に試聴をできるようにしてみた。
かつて千葉のピアノ教室で採用をしていただいて、発表会に使ったという。実は素人が、自分の可能性チャレンジという意味合いで作曲をしたものであるが、そうなると喜ばしいことだ。
そこで楽譜も、ダウンロードできるようにしてみた。
パガニーニのヴァイオリン協奏曲からリストが編曲をした「ラ・カンパネラ」は、超絶技巧の曲といってもよいだろう。よほど熟練をしたピアニストでなくては、満足に弾けない。
まして初心者には、ちょっとムリ。
そこで、バイエルとブルグミューラの中間でも弾けるように編曲をしてみた。鍵盤を左右の指で叩くので、小さい指でも弾ける。「猫踏んじゃった」ではないが、左右交互に弾くのは何となく簡単である。
『青空のホームページ』から、簡単に試聴をできるようにしてみた。
かつて千葉のピアノ教室で採用をしていただいて、発表会に使ったという。実は素人が、自分の可能性チャレンジという意味合いで作曲をしたものであるが、そうなると喜ばしいことだ。
そこで楽譜も、ダウンロードできるようにしてみた。
老いたらば、見ない、買わない、一人で遊ぶ。
まったく、みみっちく、年金生活者らしい独りよがりの話かもしれない。
「見ない」とは、ほとんど自分には関係がなくて、プラスにならない世界のことである。例えば、芸能人の秘密と言うかその日常の生活模様。
「買わない」とは、あまり自分に必要のなく、手に負えないだろう品物のことである。よくテレビ通販でやっている健康器具など。
なぜならば見ても買っても、それらはあまり意味のないことが多いから。
そこで、一人でも遊べる方法を考える。その一つが、ホームページ。見るよりも作るほうが、老化予防には役立つ。下らないことでも、一向にかまわない。
多磨霊園を散策して、「墓百選」を自分なりに作ったり、身近な川を歩いて「美川(びせん)コンクール」を開いてもよい。そんなことは意味がないというが、それはそれなりに自分自身の楽しい趣味の世界になるだろう。
まったく、みみっちく、年金生活者らしい独りよがりの話かもしれない。
「見ない」とは、ほとんど自分には関係がなくて、プラスにならない世界のことである。例えば、芸能人の秘密と言うかその日常の生活模様。
「買わない」とは、あまり自分に必要のなく、手に負えないだろう品物のことである。よくテレビ通販でやっている健康器具など。
なぜならば見ても買っても、それらはあまり意味のないことが多いから。
そこで、一人でも遊べる方法を考える。その一つが、ホームページ。見るよりも作るほうが、老化予防には役立つ。下らないことでも、一向にかまわない。
多磨霊園を散策して、「墓百選」を自分なりに作ったり、身近な川を歩いて「美川(びせん)コンクール」を開いてもよい。そんなことは意味がないというが、それはそれなりに自分自身の楽しい趣味の世界になるだろう。
車内にて、席譲られて「老い」を認識。
最近になって、電車の中などで席を譲られることがある。とくに、シルバーシートの近くではそう。やはり、他人の目から見ると老人なのであろう。
そもそも、自分が老人などと感じ始めたのは、いったいいつごろからだろうか。やはり、入院をして手術を受けたときから、少しずつ始まったみたい。退院後の経過がよくなく、いつまでもパラサイトが身体から除けなかったせいであろう。
今でもそうであるが、ちょっとそれは「扶養家族が多いので、働いても働いても金が足りない」などという状態に、似ているのかもしれない。つまり、そんな状態が顔に出て、とくに若い人が見たときに「疲れている哀れな老人」に見えるらしく、席を譲ってくれるのだろう。
最近になって、電車の中などで席を譲られることがある。とくに、シルバーシートの近くではそう。やはり、他人の目から見ると老人なのであろう。
そもそも、自分が老人などと感じ始めたのは、いったいいつごろからだろうか。やはり、入院をして手術を受けたときから、少しずつ始まったみたい。退院後の経過がよくなく、いつまでもパラサイトが身体から除けなかったせいであろう。
今でもそうであるが、ちょっとそれは「扶養家族が多いので、働いても働いても金が足りない」などという状態に、似ているのかもしれない。つまり、そんな状態が顔に出て、とくに若い人が見たときに「疲れている哀れな老人」に見えるらしく、席を譲ってくれるのだろう。