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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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1000社ほど参拝すれば、病気が治る?


ここのところ、神社仏閣を回っている。「寺社巡り」や「古事巡礼」とでもいおうか。それには、わけがある。つまり、参拝することによって病気を治そうという目論み。あまり、科学的ではないかもしれない。

しかし、そもそも日本に神社や仏閣が多いのはなぜか。
かなり昔は、国家が祈祷をして治療しようとした時代があった。聖徳太子の時代などは、神さまのほかに仏教が台頭して、やはりそうだったようだ。

実際に、千社札などを貼っている人がいる。三鷹井の頭の黒門さんは、あちこちの寺社で見受ける。かなり敬虔(けいけん)の念が深いか、あるいは勢力範囲を示しているのかは、私にはわからない。

それでも、たくさんの寺社を参拝するのは、「苦しいときの神頼み」ではなくて、それなりにご利益(りやく)があるかもしれない。
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高齢になると、皮膚にも菌が繁殖。


高齢になってくると、身体全体の抵抗力が弱くなってしまうらしい。とくに細菌に犯されやすくなるみたい。むろん、努力をして何とか肌を清潔にしているのではあるが、……

仕方のないことであろうか。
また、いったん傷口ができてしまうと、なかなか直らない。若いころは、すぐに直ってしまったが、老いてくると直るどころか、悪化をしていくことがある。
化膿をしたりするのも、そのためであろう。

おそらく、細胞自体のホメオスタシスが弱くなって、回復力を失ってしまうためらしい。そして、ついにはパラサイトの餌食になってしまう。
何とかして、いつまでも若くありたいものだ。
楽しみは、歩いた路を地図で見るとき。


雨が降ったりすると、プチさん(プティ散策)に出かけられない。
そんなときはパソコンで、グーグルの地図を見る。また、ときにはヤフーの地図。いずれも、航空写真まで見れる優れもの。縮尺も、思いのまま。とても、便利である。

しかし、グーグルとヤフーの違いはある。ヤフーのはアルプス社の地図で、かつて冊子になっているものを使っているらしい。だから、地番表示などは色分けがしてあって、何となく見やすいようだ。

まず、いずれの場合でも、ふつうの地図を見る。そして、拡大率を定めてから航空写真の鳥瞰図。自分の歩きを上から見る体験ができて、何とも面白い。いつまで見ていても、なかなか飽きない。幹線道路では、グーグルのストリートビューも面白い。
いずれの地図も、スクロールで移動ができる。歩いた路を少しずつずらしていって、再体験ができるのが何とも楽しい。
面白くないことばかりあるのが老後。


若いころは楽しいことが多かったと思う。何をしても、やりがいがあったり、充足感を味わえた。しかし、歳をとってしまうと違うみたい。
まだ、私は日々楽しいことが結構あるが、姉の友達の話を聞くとうんざりしてしまう。

その人は、老人ホームに入っているという。
しかし、そこでの生活が面白くなくて苦痛だというのである。よい環境で、衛生的にもしっかりしている。また、食事も注意して作られる。

では、何が面白くないのか。
聞くところによると、人間関係が問題らしい。つまり、意地の悪い人がいるのである。そして、不愉快なことが多い。だから、別なホームに移りたいと言っている。
しかし、どこへ行っても同じことだろう。もともと、娑婆(しゃば)という言葉が作られたくらいだから。つまり、四苦八苦の後のほうである。
友は言う、「オレにはオレの考えがある!」。


それはそうかもしれない。自尊心の高い友達の話である。
確かに彼は気位は高いが、どうも人生に対して謙虚さがないように見受けられる。私も、彼と同様に謙虚さがなく不真面目であるかもしれないが。
しかし、彼は私の比ではない。

まず、人生観というものがなく、悪く言うと刹那的である。つまり、生きるという考えの根底が見られない。
例えば、「人は何のために生きているのか?」とか「死んだらどうなるのか?」などと考えることは、あまりないようだ。
また、宗教などももっていない。無宗教でもよいが、ブレーズ=パスカルや西田幾多郎の書いているように、それなりに人生観の確立が必要であろう。

私(黒田康太)は、なるべく彼とは言い争わないようにしている。


「もう少し先で休もう」などと言いつつ。


友達とプチさん(プティ散策)をする。
お互いに古希前後であるから、すぐに疲れてしまうんだ。そこで、ベンチなどがあると「休もうか」と相成る。

しかし、友達には先が見えない。つまり、行程を理解していない。私は、まだ行かなければならない場所を知っている。したがって、あまり休んでは目的地に行けなくなってしまう。

もともとプチさん(プティ散策)ではムリをしないことが原則。しかし、途中でへたってしまっては帰れなくなる。そこで、早々(はやばや)とそこをスタートせざるをえない。

友達は、いつも恨(うら)めしそうな顔をする。

み仏のうてなに乗りた心地する日々。


晩年になると、あまり欲をかいたり、我をとおすことがなくなるみたい。
むしろ、どうにでもなってくれ。なるがまま。そんな流れに自分を置くようだ。
あたかも、み仏の台(うてな)に乗ってしまった心地。
すると、不思議なことに安心立命ができる。

なぜだろうか。
自分の我執(がしゅう)がなくなると、物事が素直に見えてくるらしい。
次々と心配をしたり、あれこれと詮索をしても、いたしかたない。
そんな日々になると、結構いろいろなことがわかってきて楽しい。

芸術や科学や文化にも疎(うと)くなって、むしろ自然の風景や草木など、さらには風や空などに、今までに見なかったものが見えてくる。
何とも楽しいことではないか。

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