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rikの新句(十九音)独り言。固定概念にはとらわれず、現時点で「生きている証明」をしました。
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プチさんは、老いたる日々の知的探検。


「知的探検」などとは、ちょっと大げさかもしれない。
しかし、大げさでもいいんだ。何事にも興味がもてるということは、老化予防の一つであるから。
サムエル=ウルマンの『青春』という詩にも、

<六十歳であろうと、はたまた十六歳であろうと、心中に不思議なものに興味をもつ気持、
 子どものような未知への探求心、人生への興味と喜びがある。
 あなたにも私にも、目に見えない中継所が心の中にある。>

というのがある。
その、未知への探究心、人生への興味、そんなことを手軽に、そして安全に求められるのがプチさん(プティ散策)なのである。

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前回に行けなかったが、次の楽しみ。


プチさん(プティ散策)をすると途中で疲れてしまったり、寄り忘れたために行かなかったところが、かなりある。そして、そんなところがあってよいと思う。

それは、次回のときの大きな楽しみとなる。
なぜならば、記事も少しずつ書き足していけばよいからであり、また再訪したところに再発見などがある。そして、それがまた新しいよろこび。

そういえば、人生そのものの変化も少しずつの場合が多い。決定的な変化やダメージは、平和な社会ではむしろ少ない。ありがたいことだ。

いっぺんに物事を完成しようと思ってはいけない。ムリが生じるからである。少しずつ完成に向かうのが、いちばんいいんじゃないだろうか。

黒田節(くろだぶし)歌えば、何か空しくもあり。


「黒田節」は、もと黒田藩の武士たちが今様形式の歌詞を作って、雅楽の『越天楽(えてんらく)』の旋律で唄ったという。昭和18年(1943年)に全国的に流行した。いわば、筑前今様である。

私は、酒を飲むと帰り道などで黒田節を歌った。かつては、遠くから聞こえてみっともないので、やめるようにと妻にしかられたものだ。しかし、最近は歌が出るようなことはない。

<酒は呑め呑め 呑むならば 日本(ひのもと)一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば これぞまことの 黒田武士 皇御国(すめらみくに)の 武士(もののふ)は いかなる事をか 勤むべし ただ身に持てる 真心を 君と親とに 尽くすまで 峰の嵐か松風か 尋ぬる人の 琴の音(ね)か 駒をひかえて 聞く程に 爪音(つまおと)しるき 想夫恋(そうぶれん) 君の晴着のお姿を 寿祝う鶴と亀 松竹梅のよろこびを 幾千代(いくちよ)までも祈るらん>

ちょっとした油断が、命失うことも。


平素からいくら健康であっても、決して油断をしてはいけない。
ムリをすると、やられてしまう。野球でならした大選手でも、少し前の状態によっては倒れてしまう。つまり、体内の水分が枯渇しかかったとき。

「油断」というのは、文字通り「油が切れた」状態であろう。機械は油が切れると、摩擦が大きくなって損傷してしまう。

人間の場合は、油ではなくむしろ水。
細胞の中に入ったり、血管の流れをよくしたり、水の効能ははかりしれない。

いつもポカリスエットを愛用していた先輩が、販売機がないままに半日我慢をしたら、倒れてしまった。夏の暑い日である。
とくに夏季は、注意が必要!
することがない無学には、ほど遠い我。


すべてのことがわかっている人を「無学」という。そんな状態になるために、日々勉強をするのである。学ぶことがなくなってしまうということ自体、人生の完成かもしれない。

しかし、一方では「無学」になるためには大変な努力をしなければならない。いろいろ考えてみると、「学ぶこと」があったほうが日々の励みになるだろう。また、それがあるからこそ生きがいがある。

そんな意味で、「無学」の状態などは求めるべきでない。と、私は思う。
今のままで、よいのである。必要に応じてその都度とくに知りたいことや興味のあることを学んでいけばよい。どだい、有限の身で無限の知識を追うのは危ういことであると『荘子』には書いてあったと思う。
老いた日の手持ち無沙汰は、死期を早める?


老いてからの何もすることがない日々は、寿命を縮めるのかもしれない。知人たちを見ていると、さもありなんと思う。ある人は奥さんに先立たれてから、何もしなくなってしまった。そして、半年後に後を追うかのように、あっけなく死んでしまったのである。

亡くなる少し前に、お宅を尋ねた人がいた。すると、部屋の中には物がいっぱい乱雑に置いてある。面倒になって、片づけをしないらしい。それまでは、すべて奥さんが元気にやっていたことである。

部屋の掃除や、整理など。
おそらく、手持ち無沙汰だったのではなく、「やる気力を失(な)くしてしまった」のであろう。その人は、奥さんを愛し、すっかり頼り切っていたのだから。
面倒になってしまった! 記事の書き込み。


新たな記事を書く。あるいは、前に書いた記事を修正する。つまり、日々更新をしていく。しかし、そんなことがいつしか面倒になってしまった。なぜならば、いつまでたっても自分自身の考え方が確立していないということが、つくづく身にしみてわかったからである。

「字を識(し)るは、憂患の始め」と、宗時代の蘇軾(そしょく)が言ったという。まったく、そのとおりだと思う。字ばかりか、知識を次から次へと求めていくと煩わしくてキリがない。

とどのつまり、未完成の自分がいくらがんばって文章を作っても、その文章は未完成ということになろう。不完全のそしりを免れない。『荘子』にあるように、有限の身で無限を求めるのは、いわゆる「しこめ(醜女)のお化粧」のようなものであろう。自分で気付かないうちが花。
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